中部イタリア併合
1860年、中部イタリア(トスカーナ、パルマなど)で、住民投票によってサルデーニャ王国に併合を実現した。
イタリアの統一運動が進展する中、中部イタリアは諸邦の小国分立状態で、統一の障害となっていた。中部イタリア諸邦とは、トスカーナ大公国(中心はフィレンツェ)、モデナ公国、パルマ公国などで、近世以来、いずれも世襲の君主が治めていたが、1859年にサルデーニャ王国がフランスと同盟してオーストリアに宣戦布告しイタリア統一戦争が始まると、それに呼応するように反乱が起こり、それぞれ君主は逃亡し、臨時政府が樹立されるとった激動が起こった。その背後には、サルデーニャ王国の首相カヴールがそれらの小国に併合を働きかけていた事実があった。その動きはローマ教皇の支配する教皇国家に含まれるロマーニャ地方(中心はボローニャ)などでも起こった。
サヴォイアはサルデーニャ王国の王家であるサヴォイア家の出身した故地であり、ニースは民族統合の英雄というできつつあったガリバルディの生まれた土地であるので、それをフランスに譲り渡すことには大きな抵抗があった。特にガリバルディとカヴールの関係は悪化した。しかし、カヴールは、立憲君主国であるサルデーニャ王国が全イタリアを統一する上で中部イタリアを併合することが優先すべきであり、感傷に囚われずにサヴォイアとニースを割譲することを決断した。
ヴィラフランカの和約
このような動きに対し、ローマ教皇を保護しているフランスのナポレオン3世は危険な動きとうけとり、戦争の長期化を警戒するようになった。その他の理由から、ナポレオン3世は戦争継続はかえって危険であるとの判断し、単独でオーストリアとの間でヴィラフランカの和約を結んで講和に踏み切った。カヴールの決断
このフランスの裏切りに怒って一時は首相を辞任したカヴールであったが、中部イタリアで共和派による統一運動が激しくなるのを見て、サルデーニャ王国の王政によるイタリア統一というカヴールの路線が危機にあると判断して首相に復帰し、再びナポレオン3世に接近、1860年1月に両者は、サルデーニャ王国が中部イタリアを併合する代償としてサヴォイアとニースを割譲するということで合意に達した。住民投票で決定
1860年3月、中部イタリア諸国(トスカーナ、モデナ、パルマ、ロマーニャ)で「国王ヴィットリオ=エマヌエレ2世の立憲君主国との結合か、分離した王国か」を問う住民投票が実施された。結果は、圧倒的多数でサルデーニャ王国への併合が決まった。 → 各諸国の位置 サルデーニャ王国②サヴォイアとニースの割譲
カヴールは、中部イタリアの併合をフランスに認めさせるのと引き替えに、かつてプロンビエール密約で約束していたサヴォイアとニースを割譲した。サヴォイアとニースでも住民投票が翌月実施され、こちらはフランスへの帰属が決定した。サヴォイアはサルデーニャ王国の王家であるサヴォイア家の出身した故地であり、ニースは民族統合の英雄というできつつあったガリバルディの生まれた土地であるので、それをフランスに譲り渡すことには大きな抵抗があった。特にガリバルディとカヴールの関係は悪化した。しかし、カヴールは、立憲君主国であるサルデーニャ王国が全イタリアを統一する上で中部イタリアを併合することが優先すべきであり、感傷に囚われずにサヴォイアとニースを割譲することを決断した。
カヴールの手法
イタリア統一は、かつてマッツィーニが模索したような、民衆の側から蜂起が起こり、共和政国家として統一と独立が実現されていく、と言う道ではなく、カヴールが進めた列強を利用した外交的な取引で国際的な承認を先に進める道がとられていくこととなる。カヴールは国際的承認と住民投票とを巧妙に組み合わせながらサルデーニャ王国への併合を実現させていった。次ぎにガルバルディは突出した軍事行動でシチリアと南イタリアを併合するが、それもカヴールの巧妙な政治的駆け引きでサルデーニャへの併合として決着する。 → イタリア