イタリアの統一/リソルジメント
中世以来分裂が続いたイタリアの民族国家の独立と統一の過程。リソルジメントともいう。フランス革命の自由と平等の理念に影響されて始まり、19世紀のウィーン体制下で展開し、1861年のイタリア王国の成立に至った。その後、1866年のヴェネツィア併合、1870年のローマなどの併合によって完了した。一部の未回収地は、第一次世界大戦後まで残った。
イタリアは、ローマ文明とルネサンスを継承している地域であるが、政治的には中世を通じて統一されることはなく、北イタリアには多くの都市国家が生まれ、神聖ローマ帝国の支配に対して対抗して都市同盟を結成したり、中部イタリアにはローマ教皇が存在し、南イタリアのナポリやシチリア島には王国が続いていた。
近代に入ってもイタリアの分裂状態は続いており、さらにイタリア戦争以来のオーストリアやフランス、スペインなどの他の西欧諸国の介入が続いた。北イタリアはオーストリア帝国の支配を受けていたが、1796年にフランス革命政府が派遣したナポレオンのイタリア遠征軍がオーストリア軍に勝利して、自由の理念をもたらして以来、その影響で市民階級による統一国家をめざす動きが始まった。このイタリアの統一と独立を目ざす運動をイタリアではリソルジメントという。 → イタリア(ナポレオンの支配から統一運動へ)
マッツィーニは蜂起を急ぎ、33~34年にジェノヴァやピエモンテで決起したが、それらは準備不足もあっていずれも失敗し、マッツィーニも亡命し、組織としては消滅したが、その思想はイタリア統一の一つの理念としてその後も指導的役割を果たした。
また翌1849年、ローマではローマ教皇が脱出し、ローマ共和国が成立して、マッツィーニも亡命先から迎えられて総裁のひとりとして共和政を実現したが、これもフランスの介入で潰されてしまった。
これによってイタリア統一運動は一時後退局面にはいるが、その間、統一の方向をめぐってマッツィーニの主張する共和政による単一の国家を目指すか、サルデーニャ王国などで立憲君主政を実現して穏健な連邦制イタリアを目指すか、という路線の違いが次第に明確になっていった。
近代に入ってもイタリアの分裂状態は続いており、さらにイタリア戦争以来のオーストリアやフランス、スペインなどの他の西欧諸国の介入が続いた。北イタリアはオーストリア帝国の支配を受けていたが、1796年にフランス革命政府が派遣したナポレオンのイタリア遠征軍がオーストリア軍に勝利して、自由の理念をもたらして以来、その影響で市民階級による統一国家をめざす動きが始まった。このイタリアの統一と独立を目ざす運動をイタリアではリソルジメントという。 → イタリア(ナポレオンの支配から統一運動へ)
カルボナリの運動
19世紀前半にウィーン体制のもとでは再びオーストリアの支配と旧体制が復活したが、イタリアの統一と独立を求める運動はカルボナリの蜂起となってまず現れた。1820年7月にはナポリで、1821年3月にはサルデーニャ王国のピエモンテで蜂起し、一時憲法を認めさせたが、いずれもオーストリアの介入で鎮圧された。続いて1831年にはフランスの七月革命の影響を受けて、中部イタリアを中心としたイタリアの反乱が起こったが、これもオーストリアによって鎮圧された。青年イタリアの運動
これらの秘密結社による運動に代わって、初めて組織的な統一運動の担い手となったのが1831年12月、マッツィーニらが組織した「青年イタリア」であり、彼らは共和政国家による統一を目指して運動を展開した。彼らが求めた過去のイタリアの栄光とはローマ帝国のことではなく、共和政ローマ、そして神聖ローマ帝国と戦いルネサンスの繁栄をもたらしたコムーネの栄光であった。マッツィーニは蜂起を急ぎ、33~34年にジェノヴァやピエモンテで決起したが、それらは準備不足もあっていずれも失敗し、マッツィーニも亡命し、組織としては消滅したが、その思想はイタリア統一の一つの理念としてその後も指導的役割を果たした。
1848年の激動
ウィーン反動体制に対する民族主義と共和政を求める戦いが高揚した1848年には、シチリアのパレルモでの暴動、ミラノ蜂起とヴェネツィア蜂起が続いた。サルデーニャ王国のカルロ=アルベルト国王は、オーストリアからの独立の好機と捉え、1848年3月23日に宣戦布告した(第1次イタリア統一戦争、第1次解放戦争)が、その戦は敗れたため、これらの独立運動は抑えられてしまった。また翌1849年、ローマではローマ教皇が脱出し、ローマ共和国が成立して、マッツィーニも亡命先から迎えられて総裁のひとりとして共和政を実現したが、これもフランスの介入で潰されてしまった。
これによってイタリア統一運動は一時後退局面にはいるが、その間、統一の方向をめぐってマッツィーニの主張する共和政による単一の国家を目指すか、サルデーニャ王国などで立憲君主政を実現して穏健な連邦制イタリアを目指すか、という路線の違いが次第に明確になっていった。
サルデーニャによる統一運動
19世紀後半のイタリア統一運動の主導権を握ったのがサルデーニャ王国(北西イタリアのピエモンテ地方とサルデーニャ島を領有していた)の首相カヴールであった。彼はクリミア戦争に参戦するなど巧みな外交でヨーロッパ列強のなかでのサルデーニャの地位を高めてフランスの支援を獲得し、1859年4月29日、北イタリアを支配していたオーストリアに戦いを挑んだ(イタリア統一戦争=伊墺戦争、第一次独立戦争)。この戦いはフランスのナポレオン3世が途中でオーストリアとの単独講和に走ったため、サルデーニャはロンバルディアを得るに留まった。カヴールは1860年にはサヴォイアとニースをフランスに割譲する代わりに、中部イタリアを併合した。しかしまだローマを中心とした教皇領、シチリア島・南イタリアのナポリ王国が別個な権力として存続していた。イタリア統一の実現
そのような状況を一気に打開し、イタリア統一を急速に実現させたのが、1860年のガリバルディのシチリア占領とそれに続くナポリ占領であった。ガリバルディはもともと共和派であったが、その占領地の統治権をサルデーニャ国王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世に献上することによってイタリアの統一を実現させる道を選んだ。こうしてリソルジメントは一応完成し翌1861年正式にイタリア王国が成立したが、都はピエモンテのトリノに置かれ、北東部のヴェネツィア地方(ヴェネト)と教皇領のローマはまだ含まれていなかった。 → イタリア統一の完成と残された問題
ヴェネツィア併合は1866年の普墺戦争でオーストリアが敗れたため実現し、ローマは1870年の普仏戦争でフランスが敗れたため、フランス軍が撤退してイタリア王国がローマ教皇領を占領して、併合されて実現した。こうして翌1871年に首都となり、これによってリソルジメントは完了した。しかし、教皇領を奪われたローマ教皇(ヴァチカン)はイタリア王国に敵対し、問題を残した。また、イタリア人住民の多いトリエステと南チロルがオーストリア領として残されたことは、「未回収のイタリア」と言われて第一次世界大戦の要因となっていく。イタリア統一に至る二つの道筋
イタリア統一の経過には二つの相対立する路線が絡んでいた。一つはマッツィーニからガリバルディに至る共和主義者による統一運動であり、それは共和政国家としてのイタリアを望み、中には連邦制の構想も含まれていた。それに対して、カヴールが推し進めたサルデーニャ王国の拡大によるイタリア統一の路線があり、これはあくまで国王のもとに統治される君主制国家としての統一を目指した。両者は相対立しながら統一運動を進め、最終的にはガリバルディの共和派が妥協し、サルデーニャ国王による統一を承認する形で終わった。しかし、この対立は統一の後のイタリア王国に多くの課題を残すことになる。<イタリア統一については、『世界の歴史』22 1999 中央公論新社 第6章(北原敦執筆)、ダガン『イタリアの歴史』2005 第4、5章を参照>イタリア統一の意味
このようにイタリアの統一はようやく19世紀の後半になってからのことであったことは十分理解しておく必要がある。1861年以前にはイタリアという国家は存在せず、単なる地域名にすぎなかった。ドイツも同じことが言え、国家統一をとげたのは1871年のドイツ帝国の成立の時である。それに加えてアジアの日本も同じ時期に近代的国民国家への歩みをはじめており、この三国が後に全体主義国家として枢軸を形成することになるのは興味深いところである。 → イタリアリソルジメント
19世紀のイタリアの国家統一運動。「再興」または「復興」という意味でリソルジメントと言われた。
19世紀初めから1860年代までに行われた、イタリアの統一運動のこと。リソルジメントとは、「再興」または「復興」という意味で、本来はかつてのイタリアの栄光をよみがえらせる運動を意味していたが、一般的にはその一面である国家統一運動のことを指すようになった。ウィーン体制下のカルボナリの運動、1831年の中部イタリアの反乱、マッツィーニの青年イタリアの運動、1848年のミラノとヴェネツィアの暴動と対オーストリア独立戦争の開始、サルデーニャ王国の首相カヴールによる統一政策、オーストリア統一戦争などを経て、1860年のガリバルディによるシチリア島、ナポリの占領とサルデーニャ王へのその統治権の献上によってリソルジメントが完成した。残る領土的回復は、1866年のヴェネツィア併合、1870年のローマなどの併合で実現した。
地理的名称・イタリアを国家に
以下、藤沢房俊氏の近著から、わかりやすい説明があるので長いが引用しておく。(引用)国民国家イタリアは、1861年に誕生した。それは、日本が明治維新によって近代国家を樹立する七年前のことである。その時まで、イタリアは、「単に地理的な名称のもとに、独立し、連合した諸国家の寄せ集めにすぎない」というオーストリア宰相メッテルニッヒの言葉通り、地理的名称に過ぎなかった。
イタリア半島には、476年の西ローマ帝国崩壊以降、統一国家は存在しなかった。イタリア半島は長い間にわたって諸邦に分裂し、外国の格好の餌食となっていた。(以下要約 このようなイタリア半島の状況につて、ダンテは『神曲』(煉獄編)で外国人の「売女宿」となってしまい、戦乱の巷と化しているとして歌い、ペトラルカは『カンツォニエーレ』のなかで、「わがイタリアよ、美しきその五体が、かくもあまたの深傷を負う・・・」と歎いている。)
このダンテとペトラルカの言葉のなかに、世界に誇る文化的イタリアという意識を見ることができる。このイタリア半島の人びとに連綿として続く潜在的な文化的イタリアの意識を前提として、存在したことのない「想像の政治的共同体」イタリアを創る運動が一八世紀末に起こる。オーストリア支配からイタリアを解放し、分裂した諸邦を1つの国家に統一しようという運動は、「再興」を意味するリソルジメント運動と呼ばれる。<藤沢房俊『「イタリア」誕生の物語』2012 講談社選書メチエ p.7-8>
ナショナリズムの変質
(引用)リソルジメント運動は近代イタリアのナショナリズムである。それをファシズムのナショナリズムと区別するために、最近ではリソルジメント期のナショナリズム、19世紀のナショナリズム、さらには民主的ナショナリズムと呼んでいる。
フランス革命が打ち上げた自由と平等の理念に強い影響を受けた、近代イタリアのナショナリズムは、19世紀末から20世紀初頭にかけて変質し、排他的で、独裁的なファシズムに行きつくことになる。ファシズムのナショナリズムは、リソルジメント期の基本理念である自由主義と民主主義を否定し、独裁的に国民を支配し、帝国主義的膨張政策を追求する。このようにリソルジメントとファシズムにおいては、ナショナリズムの意味が根本的に異なる。<藤沢房俊『同上書』 p.9>
リソルジメントとその時期
リソルジメントは、現在の研究動向では、その起源を1789年のフランス革命、その自由、平等、友愛の理想と密接に結びついていたとする解釈が大勢である。その終結は、近代的な国民国家イタリアの樹立によって政治的統一を実現した1861年とされる。しかし、領土的統一の完成は、1866年のヴェネト地方併合(ヴェネツィア併合)に続いて、ローマとラツィオ地方がイタリア王国に併合される1870年のことである。さらに、オーストリアが支配を続けていたイッレデンタ(未回収のイタリア)のアルト・アーディジェとヴェネツィア・ジューリアの併合は第一次世界大戦後まで待たなければならなかった。<藤沢房俊『同上書』 p.9-10>