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ニース

地中海に面したフランスの港、保養地。1860年、イタリア(サルデーニャ王国)からフランスに割譲された。

ニース地図

ニース GooleMap

 現在はフランス領の地中海に面した保養地として有名なところ。カンヌとモナコの中間。サヴォイア家の領地であったためサルデーニャ王国に含まれていたが、サルデーニャ王国の首相カヴールイタリア統一を進めるにあたり、フランスの支援を得るため、サヴォイア地方とともにこの地をフランスに割譲することとした。最終的にはイタリア王国成立後の1860年に中部イタリアの併合の代償としてフランスに割譲されることになり、住民投票の結果フランスへの帰属が決定した。イタリア統一のため各地を転戦していたガリバルディはニースの出身だった。彼はニースのフランスへの割譲を「革命を外交化する」ものとしてカヴールを非難、独自にイタリア統一の突破口を開こうとシチリア遠征に向かうこととなった。

ガリバルディとニース

 イタリア統一に重要な役割を果たし、英雄とされるガリバルディは1807年7月4日にニースで生まれた。当時ニースはフランス領であったのでガリバルディはフランス人として生まれたことになる。ニース(イタリア語ではニッツァ)はサルデーニャ王国領であったものが、1792年にフランス革命軍に征服されてフランス領となり、それはナポレオンの失脚する1814年まで続いた。
 1815年、ウィーン会議で、革命前の国境に戻されることになり、サルデーニャ王国領に戻った。このときジェノヴァもサルデーニャ王国に併合されたので、ニース(ニッツァ)は王国二番目の港町となった。<藤澤房俊『ガリバルディ』2016 中公新書 p.13-15>

プロンビエールの密約

 1858年7月、フランスのナポレオン3世とサルデーニャ王国の首相カヴールは、プロンビエールで密かに会合し密約を結んだ。それは、フランスがサルデーニャのオーストリアとの戦いを支援する代わりに、サヴォイアとともにニースをフランスに割譲するというものであった。この密約に基づいて、サルデーニャは1859年、オーストリアとの戦争を開始したが、途中でナポレオン3世が変心してオーストリアと単独でヴィラフランカの和約を結んでしまったので、サヴォイア・ニースのフランス割譲はこのときは実現しなかった。

フランス領になる

 一旦はフランスとの関係をとぎらせたが、カブールは次に1860年3月、中部イタリアの併合を進め、住民投票でサルデーニャ王国への併合を決めさせ、それをフランスに承認させるため、サヴォイアとニースの割譲を実現しようとし、こちらでも同じように住民投票を実施させ、住民の多数がフランスに帰属することを選んだとして、その割譲を決めた。
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