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ジャクソン

アメリカ合衆国第7代大統領。西部の農民出身。米英戦争でのインディアン討伐などで活躍、1829~37年大統領を務める。西部の農民など支持を背景に民主主義(ジャクソニアン=デモクラシー)を伸展させたが、インディアン強制移住法でインディアンを排除し、西部開拓の道を開いた。

ジャクソン

Andrew Jckson 1767-1845
The Presidents of the United States of America

 アメリカ合衆国の第7代の大統領(在任1829~37年)。サウスカロライナ出身で14歳で孤児となり、苦学して弁護士となった。さらに上院議員・下院議員として活動し、テネシー州最高裁判事もつとめた。米英戦争(1812年戦争)の司令官として活躍して人気を博し、西部農民層を基盤として、1828年の大統領選で当選し1829年3月4日に就任した。最初の西部の農民出身の大統領としてジャクソニアン=デモクラシーといわれる民主主義の原則を定着させたが、反面インディアンに対する苛酷な排除を行い、アメリカ産業の興隆を実現させた。その支持者層が結成したのが民主党であった。良くも悪くも現代のアメリカの原型を創った一人と言える。 → NewS

米英戦争での活躍

 米英戦争(1812年戦争)では司令官としてイギリス軍と戦い、特にイギリス側についたインディアンの制圧にあたった。しかし米英戦争は首都ワシントンがイギリス軍に焼き討ちされるなど、アメリカ軍の不利のまま進み、ようやく1814年にヨーロッパでナポレオン軍が敗れたことを受けて、同年12月にベルギーのガンで講和が成立した。ところが、講和成立の知らせが本国に届く前の1815年1月、ジャクソン将軍指揮のアメリカ軍がニューオリンズのイギリス軍を攻撃して大勝したので、アメリカ国民は戦争に勝利したと思い込み、合衆国の危機を救ったジャクソン将軍の名声が高まった。
インディアン掃討戦 1812年戦争の最中、イギリス側に付いたクリーク族はアラバマの砦を襲撃、250人の白人を虐殺した。報復としてジャクソン軍はクリーク族の村落を焼き払い男だけでなく女子供も殺害した。1814年、ジャクソンはホースシューベンドの戦いで1000人のクリーク族のうち、800人を殺した。実はジャクソンの勝利はチェロキー族に戦後の友好を約束して味方にし、白人部隊はクリーク族襲撃に失敗したものの、チェロキー族が川を泳いで背後からクリーク族を襲ったことでもたらされたものだった。戦争が終わるとジャクソンはみずから条約交渉の役につき、クリーク族の土地の大半を取り上げる条約を結び、友人たちとその土地を買いあさった。土地を私有するという観念のなかったインディアンの社会の伝統はこの条約で破壊され、インディアン同士の対立が持ち込まれることとなった。<ハワード・ジン/鳥見真生訳『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』上 2009 あすなろ書房 p.103-104>

第7代アメリカ合衆国大統領

 アメリカ合衆国では1801年からのジェファソン大統領以来、反連邦派の系列につながるリパブリカン党が政権を握っていたが、米西戦争や領土の拡張という時代に直面して、連邦主義的な政策に傾くこともあり、内部から分裂していった。そのような中で、米英戦争の英雄として人気が高かったジャクソンが、リパブリカン党の一部が結成した民主共和党の支持を受けて1828年の大統領選挙に出馬した。ジャクソンは、東部大都市の上層部という既成勢力(エスタブリッシュメント)に対する反発を強めていた西部の開拓農民、北東部の労働者、南部の奴隷農園主の支持を受けて当選、1829年3月4日に第7代大統領に就任、西部の農村出身の最初の大統領として人気が高かった。1832年に、ジャクソン支持派の民主共和党は正式に民主党と称することとなった。
 一方でその強権的な政治手法に対する反発も強く、反ジャクソン派は、リパブリカン党の中の連邦主義的傾向の強いグループと合流し、国民共和党を結成、まもなくホイッグ党といわれるようになる。

Episode 民主党のシンボル ロバ

 アメリカの大統領選挙のニュース映像の中に、共和党のシンボルの象に対して民主党のシンボルとしてロバのイラストが見られる(民主党のページ末尾を参照。)この起源は意外に古く、ジャクソンがあるとき反対派から、馬鹿を意味するロバ(jackass)と揶揄されたとき、それを逆手にとって党のマスコットにしたという。それに対する共和党の象は、1874年にトーマス=ナストという人が共和党をロバに追っかけられる象とする諷刺画を描いたことによる。いかにもアメリカらしいジョークから始まっていた。<Wikipediaによる>

ジャクソニアン=デモクラシー

 ジャクソン大統領の時期に民主主義が進展したと言われている。それはアメリカで米英戦争(1812年戦争)後に、多くの州で一定の年齢(おおむね21歳)に達した白人男性に選挙権が与えられる普通選挙が採用されるようになったことによって、州知事や州議会選挙や裁判官、地方官吏の選挙に至るまで、人民が議員を選挙するようになったことによる。そのような風潮の中で大統領選挙でも従来の東部のエリートではなく、西部の実直な人間が好まれるようになり、それはジャクソニアン=デモクラシー(ジャクソン民主主義)といわれたのだった。ジャクソンの推進した民主主義を支えたのは西部の独立した自営農民と東部の労働者層であり、自立を尊ぶ開拓者精神と権威(エスタブリッシュメント)を嫌う平等主義を共通の心情とするアメリカの「草の根民主主義」の源流であった。
 しかしその一方で、ジャクソン大統領はインディアン強制移住法を制定し、インディアンに対する苛酷な処置をとった。またこの大統領の時から、大統領交代に伴い公務員も交替するスポイルズ=システムが定着し、それ以後のアメリカ官僚制の特色となった。

Episode OKのはじまり

 アンドリュー=ジャクソン大統領は、書類に許可を与えるとき、All Correct と書くつもりで、まちがって Oll Korrect と書いた。OKということばはここからきていると言われている。ジャクソンは無学ではあったが、決断力に富み、実効力があったので、民衆には絶大な人気があった。大統領になったときは61歳、白髪長身を黒い軍服を身につけ、就任演説で「この日こそ人民にとってほこるべき日である」とのべ、そのあとホワイトハウスを開放し、酔っぱらった西部人は泥靴のまま椅子の上に立ち上がり、カーペットをよごしたりしてお祝いをしたという。<中屋健一『世界の歴史』11 新大陸と太平洋 中央公論社 p.145>

インディアン強制移住法

 ジャクソン大統領は1829年の年次教書でジョージア州とアラバマ州の先住民インディアンをミシシッピ川以西の土地に土地に移住させる意向を表明した。それを受けた連邦議会は1830年5月にインディアン強制移住法を可決し、それ以後、チェロキー、クリーク、チョクトウ、チカソー、セミノールの「開化5部族」などのインディアンはミシシッピ以西の現在のオクラホマへと強制的に移住させられた。その広大な跡地は白人の開拓農民に与えられて綿作地帯となり、南部の綿花プランテーションへと成長していった。
インディアンの抵抗 ジャクソン大統領の強制移住政策に対して、インディアンの抵抗が激しくなった。1832年にはブラックホークを指導者としたサック族・フォックス族連合軍の武装蜂起、1835~42年にはフロリダでオセオーラを指導者とした第2次セミノール族の武装蜂起が相次いだ。しかし、ジャクソン政権の武力によっていずれも鎮圧された。武力で抵抗をできなくなったインディアンは、1838~39年、チェロキーが涙の旅路と言われる苦難を経てオクラホマの保留地への集団移住を行った。
苛酷なインディアン政策 ジャクソンは“インディアンと戦う勇士から大統領に登りづめた”男であり、“初期アメリカ史で、もっとも無慈悲なインディアン政策を行った人物”であった。1832年、大統領に再選されるとインディアン強制移住政策を急がせ、アラバマに残る2万2000ほどのクリーク族に連邦政府との約束と引きかえに移住に同意させた。約束とはクリーク族の土地の一部を分割して彼らの個人所有とし、土地を得たものはそれを売るなり、政府の保護下でそこにとどまるなり自由にできる、という内容だった。しかし、分割された土地に殺到した白人は、インディアンを脅迫し虐待した。政府の保護の約束を破られたクリーク族が白人入植者を襲撃すると、政府はこの<戦争>によって条約は破られたとしてアメリカ陸軍を送り込み、強制的に移住させた。<ハワード・ジン『上掲書』 p.109-110>

NewS ジャクソン大統領の銅像、倒される

 2020年5月のミネアポリスでの黒人ジョージ=フロイドさんが白人警官に殺害された事件に対する抗議行動は、暴動を各地で誘発しただけでなく、歴史的な人種差別主義への告発として広がっており、各地で歴史上の人物が差別主義者と糾弾され、引き倒されるなどの動きとなって続いている。
 それに対してアメリカのトランプ政権は神経を尖らせ、そのような破壊行動に対しては首謀者を割り出し、逮捕するという大統領令を出した。その一発目で、6月28日、アメリカ司法省はワシントンのホワイトハウス近くにある第7代アンドリュー=ジャクソン大統領の騎馬像を引き倒そうとしたデモ隊のリーダー格4人を訴追した、と発表した。
 ジャクソンと言えば、西武の農民出身で米西戦争の英雄、庶民的な人がらで人気の高い大統領の一人だが、やはりインディアン強制移住法は最悪の人種差別政策として糾弾されるべきであろう。当時の事情から言って彼に人種差別の意図はなかった、という弁解論が当然あろうが、大統領という職務は歴史的審判を受けなければならないものだとすれば、現代の価値基準で彼を差別主義と糾弾するのもいたしかたないだろう。