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フローベール

19世紀後半のフランス、写実主義文学の代表的な作家。『ボヴァリー夫人』などは近代文学の最初の問題作であった。

 Gustave Flaubert 1821~1880 19世紀後半、第二帝政のフランス(ナポレオン3世の時代)の文学者。『ボヴァリー夫人』などの作品で、当時の社会と人間のあり方をありのままに描く写実主義(リアリズム)の文学を大成させた。『ボヴァリー夫人』は、発表当時はその内容が良俗に反するものとして起訴され裁判となるほど革新的であった。ナポレオン3世の第二帝政のもとで、他にも官憲によるボードレールの『悪の華』に対する発禁処分や、美術ではクールベマネの新しい画風が激しい非難にさらされていた時期であった。

写実主義の文学

 フローベールの文学は写実主義(リアリズム)と言われるが、同じような風潮は美術にも見られ、ドーミエやクールベの他にミレーが活躍した(ミレーは自然主義絵画とされることも多い)。これらの文学や美術における写実主義の思想的背景となったのは、七月王政期に現れたコントの実証主義であり、それは神学的、形而上学的な思惟ではなく、事物を観察し、客観的に表現することで真実に迫る手法であった。
作品『ボヴァリー夫人』(1857年)は、田舎の医者夫人が平凡な日常と夫から逃れようと、若い男を恋したり、色事師に引っかかったりして堕落していく様を描いている。露骨な性愛が描かれているわけではないが、妻の不倫というテーマを正面から取り上げたこと、随所に見られる第二帝政期の商人や僧侶などに対するあからさまな非難が人々を驚かした。フローベールの作品はこの他に『サランボー』(1862年)、『感情教育』(1869年)などがある。

ボヴァリー夫人

 1857年発表のフローベールの代表作。19世紀前半を支配したロマン主義の文学に対する、写実主義(リアリズム)の最初の傑作として称賛されている。発表されるとすぐ、第二帝政政府によって「良俗を害し、宗教を汚すもの」として起訴され裁判となったが、裁判の結果無罪となった。かえってそのことで話題となり、フローベールの名とこの作品が有名になった。あるときボヴァリー夫人のモデルは誰かと聞かれてフローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と答えた。また、あるときは「いまこのとき、フランスの多くの村々で、ボヴァリー夫人が泣いている」といったことも有名である。<岩波文庫 伊吹武彦の解説より>
 主人公のエンマは田舎町の医者の夫人。夫シャルルは「歩道のように平板で、そこには月なみな思想が、感動も笑いも夢もそそらずに、普段着のままでぞろぞろ歩いていた。」<p.64>エンマは「夫の胸にちょっと火打ち石をたたいてみて火花一つ出すことができず・・・」恋することを知らずに過ごすことに飽いていた。熱心に読書をし、「エンマはその頃メアリ・スチュアートを崇拝し、有名な女、薄幸な女に熱烈な尊敬の情をささげていた。ジャンヌ・ダルク、エロイーズ、アニェス・ソレル・・・などが無辺際の歴史の闇に、彗星のように浮かんで見えた。またそこには、かしの木陰に裁判する聖ルイ王や、死んで行くバイヤール将軍やルイ11世の暴虐や、聖バルテレミー祭大虐殺のひとくさりや、アンリ4世の兜の前立、そしていつもきまったように、ルイ14世をたたえたあの絵皿の記憶が、・・・ひとしお深い闇にまぎれて浮き出ていた」<p.59>のだった。やがてレオンという青年と密会するようになり、恋の冒険を楽しむようになる。しかし深入りを恐れたレオンは街を離れる。そんなエンマの美貌に目を付けた色事師ロナルドが近づいてくる・・・。物語の後半はこのようなロマンチックな主人公の夢が、「世間」という現実世界の中で次々と壊されていくありさまが残酷に描かれていく。<『ボヴァリー夫人』伊吹武彦訳 上・下 岩波文庫>

感情教育

 フローベールが1864~69年に発表した文学作品。時代は七月王政の1840年に始まり、山場に1848年の二月革命のパリが舞台となっている。副題が「ある青年の物語」とあるように、主人公フレデリックとその周辺の青年たちの、いわば青春群像であり、彼らの出世欲と正義感、愛欲と克己心などの葛藤が描かれている。フレデリックは弁護士として世に出るため田舎からパリに出てきた。その旅の途中の船乗り場で美しい人妻アルヌー夫人に出会う。パリで、その夫の画商アルヌーと知り合いになり、そこに出入りする人たちと交わるようになる。しかしアルヌー夫人に対する思いを遂げることが出来ない。そのうち、アルヌーの情婦ロザネットと知り合う。二人で過ごした夜が明けると、パリは二月革命の勃発の日であった。フレデリックは街に飛び出す・・・・。激動の中でもフレデリックは遂げられない思いに虚無的になり革命から離れていく。ロザネットとの間に子どもが出来るが、その子はあっけなく死んでしまう。田舎に帰り、母の進める縁談に気持が揺れていく。結局田舎に戻ったフレデリックは土地の有職者のサロンに出入りしてその家の夫人の愛人になる。パリではアルヌーが事業に失敗し、夫人も苦労をしているらしい。何年かの後、パリに戻ったフレデリックはアルヌー夫人に再会するが・・・。
 フレデリックは野心と欲望をに燃えた、自信たっぷりの青年であったが、激動のパリで革命に翻弄される。仲間もブルジョワ派や王政復古派、社会主義派へと分かれていくなかで、彼自身も挫折していく。フレデリックの人物像にはフローベール自身が反映していると言われているが、近代社会の青年が味わった「青春の蹉跌」の最初の典型といえるだろう。<『感情教育』生島遼一訳 上・下 岩波文庫>

二月革命の史料としての『感情教育』

 この作品でフローベールは自ら体験した二月革命からルイ=ナポレオンのクーデターに至る過程を、さらに厳密に史料にあたって再現している。特に第2部6章から第3部1章はよく引用される。<岩波文庫 下 p.24~163>
また、フローベールの社会批判は作中人物にこんなことを言わせている。
(引用)農業の保護をもっとよくし、あらゆることを自由競争や無秩序にまかしておかず、あの laissez faire,laissez passer (なすにまかせよ=レッセフェール)の悲しむべき格言にまかしておかなかったら、あんなこと(1846~47年、ビュザンセ地方で飢饉のため農民と官憲が衝突した)は一切起こらずにすんだのだ。だからこそ、も一つの封建制度より悪質な金銭の封建制度が出来上がった。<同 上 p.219>

サランボー

 ボヴァリー夫人で人気作家となったフローベールが1862年に発表した第2作。写実主義の前作と打って変わった古代カルタゴの歴史に題材をとった伝奇的な作品に多くの人がとまどった。その評価はまちまちだが、世界史学習との関連でいえば、歴史小説として興味深い。フローベールは執筆にあたってポリビオスなどの史料を読破し、みずからカルタゴの故地に現地取材に行くなど、周到な準備をして仕上げている。物語は第1回ポエニ戦争の後のカルタゴで大規模な傭兵の反乱が起き、反乱軍に奪われた聖布を奪い返そうとした王女サランボーが、反乱軍の首領マトーと一夜をすごすうちに愛するようになり、反乱の鎮圧と愛情の間で悩むこととなる、というもの。物語の展開が現代のドラマから見ればやや冗長で、読み通すのは骨が折れるかも知れないが、途中でカルタゴの奇習である「幼児犠牲」―国のために幼児を生贄にする―などへの言及があり、面白い。<カルタゴの幼児犠牲については、佐藤育子他『通商国家カルタゴ』講談社学術文庫 p203~ などにくわしい解説がある>
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書籍案内

フローベール
伊吹武彦訳
『ボヴァリー夫人』上
岩波文庫

フローベール
生島遼一訳
『感情教育』上
岩波文庫

フローベール
/神戸孝訳
『サランボー』上・下
角川文庫