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クールベ

19世紀、フランスの写実主義美術の代表的画家。既成の画壇に反発し、社会の現実を表現する作品を世に問い、行動者としてパリ=コミューンにも参加した。

近代絵画の改革者

 クールベ Gustave Courbet 1819~1877 は19世紀フランス美術のひとつの潮流である写実主義の代表的な画家。彼はフランスの第二共和制から第二帝政・第三共和政の時代に生き、「生まれながらの共和主義者」と自称し社会に強い関心を抱き続けた。それまでの西欧絵画において、画壇の主流であった古典主義や、19世紀に隆盛したロマン主義の潮流に抗して、新しい写実主義(リアリズム)絵画という潮流をつくり出し、民衆の実際の生活を描き、社会にかかわるという近代絵画を創出した一人となった。写実主義の画家には他にドーミエがいる。また同時期のコローやミレーは自然主義の範疇とされる。
石割り
クールベ『石割り』1850
プルードンとの親交 クールベは最初フーリエの思想を知り、次いで同郷のプルードンの社会主義思想に共鳴して、絵画を通じてその思想を表現しようとした。1850年に発表した『石割り』はそれまでの絵画で題材とされなかった名もない石割人夫の労働する姿を描き、プルードンから絶賛され、「最初の社会主義絵画」と呼ばれた。プルードンの死後、『1853年のプルードン』を描いている。
ナポレオン3世への反発 彼が田舎町の貧しい農夫や労働者などをしばしば描くのはそのためであり、彼にとって理想であった1848年革命とそれに続く第二共和政を無残にも踏みにじってしまったナポレオン3世に強い反感を抱いたのものそのためである。事実、第二帝政時代に時の政府が彼にレジオン・ドヌール勲章を授与しようとした時、彼は「それよりも私は自由がほしい」と言って公然と叙勲を拒否した。<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.168>
写実主義の提言 1855年、パリ万国博覧会が開催されたとき、クールベは『画家のアトリエ』(下を参照)を出品しようとしたが、当局から拒否された。憤激した彼は、万博会場の前で個展を開き、自ら「写実主義者(レアリスト)」と称した。このときが写実主義絵画の出発点とされる。
パリ=コミューン クールベは1870年に普仏戦争が始まると国防政府軍に加わって戦い、ナポレオン3世が退位してパリ=コミューンが成立するとそれにも参加した。コミューンが崩壊した後、クールベはヴァンドーム広場の記念円柱を破壊した責任を問われ、罰金刑を科せられたため、スイスに亡命し、その地で58歳で亡くなった。
印象派への橋渡し  クールベは思想的には社会主義の立場で絵画に新しい題材を持ち込み、「写実主義」の画家とされるが、技法においては特に革新的であったわけではなかった。19世紀後半の新しい技法は、マネによって切り開かれ、印象派が生まれてくる。クールベの作品は『石割り』の他に『オルナンの葬式』、『画家のアトリエ』など多数。

Episode 消えた『石割り』

 クールベの初期の代表作である『石割り』は、山川の旧版詳説世界史は写真が掲載され、第二次世界大戦のドレスデン爆撃で消失したという説明文まで記されていた。ところが新版(2013年)の山川詳説世界史では『石割り』は取り上げられておらず、クールベの名前も本文から消えた。ここにも最近の教科書の変質があらわれているのだろうか。

作品 画家のアトリエ

クールベ『画家のアトリエ』
クールベ『画家のアトリエ』 1855
 クールベの代表作。1855年。361×598cmの巨大な画面の中央にカンバスに風景画を描いているクールベ自身がいる。それを裸体のモデルや子犬を連れた子どもが見ている。その左右にさまざまな群像が描かれていて、実際のアトリエの風景からはまったくはなれている異様な作品である。これは同年の万国博覧会への出品を拒絶されてしまったので、クールベは他の自作とともに会場の筋向かいに自費で場所を借りて個展を開き、公開した。彼が自ら「レアリスト(写実主義者)」と名乗ったのはこの時である。しかし観客にはさんざんで入場料を半額に下げても入場者は増えなかった。しかし、当時画壇の大家であったドラクロワは「異様な傑作だ」と評した。実はこの作品の本題は「現実的な寓意・わが7年間の芸術的生涯の一面を決定するわがアトリエの内部」という長いもので、描こうとしたのは「社会」の悲惨であり、左側の一群はブルジョワと商人のまわりに墓掘り人や娼婦、失業者などの底辺の人々を描き込み、右側の一群には彼の絵の数少ない理解者であるプルードンや詩人のボードレールなどが描かれている。<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.163-170>

Episode 「天使は見たことがないから書かない」

(引用)「天使は見たことがないから書かない」という台詞で有名なキュスターヴ・クールベ。今でこそフランスを代表する写実主義の画家といわれますが、当時はサロンから冷遇され、多くの一般市民からも受け入れられませんでした。彼は、市井に生きる人びとや風景を、自分が見て感じたままに描きました。そこにはロマン主義のようなセンチメンタリズムも、理想化もありません。現代に生きる私たちからすれば当たり前の感覚ですが、当時の保守的な人びとにとって、それは非常に革新的なことでした。<木村泰司『名画の言い分』2011 ちくま文庫 p.265>

Episode 美術史上、最初の個展

(引用)1855年のパリ万国博覧会の際に、この作品(『オルナンの埋葬』)と新作『画家のアトリエ』の出展を拒否されます。そこで万博会場のすぐ近くの建物を借り、「ギュスターヴ・クールベ作品展 入場料1フラン」の看板を立てて、自らの作品を公開しました。これが美術史上、初の個展といわれています。当時、画家が作品を発表する場はサロンが一般的でした。入選しなければ発表の機会は失われ、たとえ入選しても展示場所が悪ければ何千点という作品のなかに埋もれてしまうのが現状だったのです。<木村泰司 同上書 p.267>
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書籍案内

高階秀爾
『名画を見る眼』
1969 岩波新書

木村泰司
『名画の言い分』
2011 ちくま文庫