写実主義
19世紀のヨーロッパの文学と美術で盛んになった芸術様式であり、潮流である。それまでの古典主義・ロマン主義の理想的、非現実的な内容に対し、現実の人間と社会を直視し、主観を交えず客観的に描写することが主流となった。
写実主義は、リアリズムの訳語であり、しばしば自然主義と訳されることもある。写実主義は文学と絵画の両芸術部門で見られ、いずれもそれまでの古典主義が理想的な人間や社会を追究したり、ロマン主義が非現実的な幻想を追い求めて現実から遊離していったことに反発し、現実の人間と社会を客観的に描くことで真実に迫ろうとする共通した姿勢があった。
19世紀前半のヨーロッパの時代的背景は、フランス革命の激動からナポレオン帝政を経てウィーン体制の反動期となったことである。自由主義や民族独立運動は弾圧されたが、イギリスで先行した産業革命の波がヨーロッパに押しよせ、産業資本家の経済力が強まったことに反比例して、貴族階級の相対的な地位は明らかに低下していった。一方で新たな登場した労働者階級はその数を増すとともに、都市人口の急増をもたらし、18世紀とは明らかに異なる社会を出現させていた。新たな芸術の震源地となったフランスにおいても、1830年の七月革命によって王政と共和政の妥協としての立憲君主政である七月王政のもとで、産業革命が進行して新興市民階級が主導権を握る一方で、増加した工場労働者の生活状態はますます苦しくなると言う階級対立が明確になっていった。 → 自然主義
スタンダール(1783-1842) 19世紀の前半に登場したスタンダールは、ロマン主義的な心情をもちながら、復古王政の時期のフランス社会を客観的な目で描いた『赤と黒』(1830)で、写実主義の最初の作品を送り出した。『パルムの僧院』(1838)は、ナポレオン戦争を題材にロマン主義的な青年の行動を追いながら、歴史の変化を的確に捉えた作品であった。
バルザック(1799-1850) 多作の人であるが、自ら莫大な負債を抱え、返済のために盛んな創作活動を行ったという、まさに職業としての作家の最初の一人であった。それだけに人間観察は鋭く、虚飾や観念論を捨て、写実主義の典型と言える作品を生み出した。代表作は『ゴリオ爺さん』(1835)を含む、連作『人間喜劇』で、フランス革命から二月革命までのさまざまな出来事を、約2000人の登場人物で綴った大作。
フローベール(1821-1880) フローベールは、1856年に発表した『ボヴァリー夫人』で写実主義文学の大家としての名声を獲得したが、同時に医者の妻が不倫の末に破滅するというその内容は風俗を紊乱するものとして訴えられ、裁判の被告となるというスキャンダラスな作家としての登場となった。それだけこの作品はセンセーショナルなものであったが、人間の欲望と弱さを淡々と描く乾いた文章は写実主義文学の最高峰と位置づけられている。その他、『感情教育』(1869)では二月革命を背景として野心家の青年が挫折していく姿を描き、現代人の孤独に通じる人間存在のあやうさを感じさせる文学的境地を開いた。
その他の写実主義文学 フランス以外では、イギリスのサッカレー(『虚栄の市』1848)、ディッケンズ(『二都物語』1859)、ロシアのゴーゴリ(『検察官』1836、『死せる魂』1852)、ツルゲーネフ(『猟人日記』1852、『父と子』1862)などが写実主義文学の範疇に入るとされる。
写実主義からの転換 19世紀後半から20世紀初頭にはロシアにドストエフスキー(『罪と罰』1866、『カラマーゾフの兄弟』1880)・トルストイ(『戦争と平和』1869、『アンナ=カレーニナ』1877、『復活』1899)・チェーホフ(演劇『桜の園』1904)が現れる。彼らの作品には写実主義の枠を越えた、信仰や歴史というテーマ性がある。一方、フランスにおいては、1870年代にゾラが現れ、客観的な文学表現にあきたらず、現実の社会の問題点を科学的、実証的に抉り取ろうという自然主義文学が提唱され、さらにその反動として、世紀末には社会の現実に従属する文学を否定し、美そのものを探求する耽美主義と言われる文学が登場してくる。
絵画をめぐる状況の変化 19世紀前半に文学、美術の分野で写実主義という新しい潮流が起こったが、その背景には資本主義・工業化の進展により、労働者の増大と都市への人口集中、鉄道などの交通網の整備、新聞や雑誌などの登場による文化の大衆化という変化があった。それが特にフランスの1830年代に顕著になっていった。
ドーミエ ドーミエ(1808~1879)はマルセイユに生まれ、パリに出て独力で巧みなデッサン力を身につけ、都会の底辺に生きる労働者や庶民に観察の目を向けていった。七月王政時代には新聞雑誌に石版画の風刺画を発表し、国王ルイ=フィリップをあからさまに風刺したために投獄された。40歳を過ぎた第二共和政のころから油絵を描き始めたが、『三等列車』や『洗濯女』など、第二帝政下のフランス社会に鋭い批評眼を発揮している。晩年は文学や演劇にも関心を広げ、『ドン=キホーテ』などで単なる写実主義を越えた人間を見る眼を感じさせる作品を生み出した。
なお、同時代のコローやミレーなど、風景や農村を描いた画家を自然主義絵画として区別することが多いが、上記の高階氏の著作など美術史の概説書ではこれらも写実主義(リアリズム)絵画に含めて説明することが多い。
19世紀前半のヨーロッパの時代的背景は、フランス革命の激動からナポレオン帝政を経てウィーン体制の反動期となったことである。自由主義や民族独立運動は弾圧されたが、イギリスで先行した産業革命の波がヨーロッパに押しよせ、産業資本家の経済力が強まったことに反比例して、貴族階級の相対的な地位は明らかに低下していった。一方で新たな登場した労働者階級はその数を増すとともに、都市人口の急増をもたらし、18世紀とは明らかに異なる社会を出現させていた。新たな芸術の震源地となったフランスにおいても、1830年の七月革命によって王政と共和政の妥協としての立憲君主政である七月王政のもとで、産業革命が進行して新興市民階級が主導権を握る一方で、増加した工場労働者の生活状態はますます苦しくなると言う階級対立が明確になっていった。 → 自然主義
文学史上の写実主義
文学史上の写実主義は、19世紀のフランスで大きな潮流となった。ロマン主義文学とほぼ平行して作品が生まれているが、大づかみに言うと、19世紀前半がロマン主義の全盛期、後半が写実主義の時代と捉えて良いと思われる。スタンダール(1783-1842) 19世紀の前半に登場したスタンダールは、ロマン主義的な心情をもちながら、復古王政の時期のフランス社会を客観的な目で描いた『赤と黒』(1830)で、写実主義の最初の作品を送り出した。『パルムの僧院』(1838)は、ナポレオン戦争を題材にロマン主義的な青年の行動を追いながら、歴史の変化を的確に捉えた作品であった。
バルザック(1799-1850) 多作の人であるが、自ら莫大な負債を抱え、返済のために盛んな創作活動を行ったという、まさに職業としての作家の最初の一人であった。それだけに人間観察は鋭く、虚飾や観念論を捨て、写実主義の典型と言える作品を生み出した。代表作は『ゴリオ爺さん』(1835)を含む、連作『人間喜劇』で、フランス革命から二月革命までのさまざまな出来事を、約2000人の登場人物で綴った大作。
フローベール(1821-1880) フローベールは、1856年に発表した『ボヴァリー夫人』で写実主義文学の大家としての名声を獲得したが、同時に医者の妻が不倫の末に破滅するというその内容は風俗を紊乱するものとして訴えられ、裁判の被告となるというスキャンダラスな作家としての登場となった。それだけこの作品はセンセーショナルなものであったが、人間の欲望と弱さを淡々と描く乾いた文章は写実主義文学の最高峰と位置づけられている。その他、『感情教育』(1869)では二月革命を背景として野心家の青年が挫折していく姿を描き、現代人の孤独に通じる人間存在のあやうさを感じさせる文学的境地を開いた。
その他の写実主義文学 フランス以外では、イギリスのサッカレー(『虚栄の市』1848)、ディッケンズ(『二都物語』1859)、ロシアのゴーゴリ(『検察官』1836、『死せる魂』1852)、ツルゲーネフ(『猟人日記』1852、『父と子』1862)などが写実主義文学の範疇に入るとされる。
写実主義からの転換 19世紀後半から20世紀初頭にはロシアにドストエフスキー(『罪と罰』1866、『カラマーゾフの兄弟』1880)・トルストイ(『戦争と平和』1869、『アンナ=カレーニナ』1877、『復活』1899)・チェーホフ(演劇『桜の園』1904)が現れる。彼らの作品には写実主義の枠を越えた、信仰や歴史というテーマ性がある。一方、フランスにおいては、1870年代にゾラが現れ、客観的な文学表現にあきたらず、現実の社会の問題点を科学的、実証的に抉り取ろうという自然主義文学が提唱され、さらにその反動として、世紀末には社会の現実に従属する文学を否定し、美そのものを探求する耽美主義と言われる文学が登場してくる。
美術史上の写実主義
フランスで写実主義(レアリスム)という概念が現れるのは1830年代であったが、「写実主義」の名称を世に広めるのに最も大きな役割を果たしたのはクールベである。クールベは1855年の万国博覧会の際、自分の提出した作品が大部分落選したことに憤慨し、万博会場のすぐ前のモンテーニュ通りに会場を借り「写実主義」と名のる個展を開催した。その翌年、批評家のデュランティが『写実主義』(レアリスム)と題する雑誌を創刊し、「われわれの生きている時代の社会環境を、正確に、完全に、誠実に描き出す」ことを標榜した。絵画をめぐる状況の変化 19世紀前半に文学、美術の分野で写実主義という新しい潮流が起こったが、その背景には資本主義・工業化の進展により、労働者の増大と都市への人口集中、鉄道などの交通網の整備、新聞や雑誌などの登場による文化の大衆化という変化があった。それが特にフランスの1830年代に顕著になっていった。
(引用)このことは、美術の世界においては、鑑賞者が、そしてもっと端的に言えば作品の購買者が、宮廷や貴族の限られた権力者たちから広く一般市民にまで拡がったことを意味する。1830年代に、あるジャーナリストは、「油絵で自分の肖像画を描いて貰った市民は、水彩の肖像画しか持っていない隣人を軽蔑し、石版画の肖像の持主に対しては挨拶もしない」と書き記したが、このような文章が書かれたと言うことは、一方では、平等の旗印の下に「身分制の秩序」を廃止したはずのフランスの社会において新たな経済力の差による「富の序列」が成立したことを物語ると同時に、他方では、それほど富裕でない市民でも、それなりに見合ったかたちの作品を手にいれることが出来る状況が生まれてきたことをも示しているだろう。芸術活動を経済的にさせる人びとを広い意味で「パトロン」と呼ぶなら、この時代、パトロンの層がいっきょに拡大したのである。<高階秀爾『フランス絵画史』1990 講談社学術文庫 p.233>パトロンの拡大と変質 パトロンの層が拡大しただけではなく、そのあり方も大きく変わった。新しいパトロンたちは、かつての王侯貴族のように、芸術家を「丸抱え」で養う力はない。彼らは、肖像画を描いて貰うか、出来合の絵を買うだけが普通であった。画家の側からも、不特定多数の愛好者を相手に描くようになった。売り手としての画家と買い手としての市民を結びつける場として個展や展覧会であり、画商が生まれた。つまり絵画も商品となった。写実主義絵画が対象を一般市民の生活を描くことに向けていった背景には、このような「パトロンの拡大と変質」という絵画をめぐる状況の変化があったと考えられる。
写実主義の画家
クールベ クールベ(1819~1877)は1850年代、『オルナンの埋葬』や『画家のアトリエ』、『石割り』などでセンセーショナルな登場をしたクールベは、第二帝政の閉塞した社会の打破をめざすプルードンに認められ、クールベは彼の肖像を描いているが、それは従来の肖像画の枠を越えて、思索するプルードンの一瞬を捉えている。1870年に普仏戦争が始まると国防政府軍に加わって戦い、パリ=コミューンにも参加したが敗れてスイスに亡命した。ドーミエ ドーミエ(1808~1879)はマルセイユに生まれ、パリに出て独力で巧みなデッサン力を身につけ、都会の底辺に生きる労働者や庶民に観察の目を向けていった。七月王政時代には新聞雑誌に石版画の風刺画を発表し、国王ルイ=フィリップをあからさまに風刺したために投獄された。40歳を過ぎた第二共和政のころから油絵を描き始めたが、『三等列車』や『洗濯女』など、第二帝政下のフランス社会に鋭い批評眼を発揮している。晩年は文学や演劇にも関心を広げ、『ドン=キホーテ』などで単なる写実主義を越えた人間を見る眼を感じさせる作品を生み出した。
なお、同時代のコローやミレーなど、風景や農村を描いた画家を自然主義絵画として区別することが多いが、上記の高階氏の著作など美術史の概説書ではこれらも写実主義(リアリズム)絵画に含めて説明することが多い。