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オスマン

フランス第二帝政期にナポレオン3世の指示によりパリの大改造を実行した。

 1851年のクーデタで権力を握り、皇帝となったナポレオン3世は、若い頃からロンドンに倣ってパリ改造を意図していた。その実行のためにパリを管轄するセーヌ県知事に抜擢されたのがオスマンであった。オスマンによって実行されたパリ大改造は、広場を中心とした放射状の道路、公園の配置などにとどまらず、上下水道の整備などを実現し、パリを近代都市に生まれかわらせ、第二帝政を象徴する事業となった。

パリ大改造の立役者

 現在のパリのオスマン大通りは、パリ大改造を担当したセーヌ県知事オスマンの名を冠したものであり、完成はその死後の1927年だった。その他の壮麗なパリの大通りも、ルイ14世の時のグラン=ブールヴァール、ナポレオン1世の時のリヴォリ通り、七月王政期のランビュトー通りなどを除いて、ほとんどがオスマンが計画し、造ったものであり、彼は「花の都」パリの産みの親と言うことができる。
 ウージェーヌ=オスマン(Haussmann 1809-91)はアルザスのドイツ系を先祖にパリで生まれ、名門のアンリ4世校を出て行政職に就き、各地の地方官吏を務めていた。ルイ=ナポレオンがまだ皇帝になる前に地方視察に言った際、その地の官吏だったオスマンが民衆に「皇帝万歳!」と歓呼の声を上げさせて出迎えて、ルイ=ナポレオン腹心の内務大臣ペルシニーがその才覚を見込み、1853年、パリを管轄するセーヌ県知事に抜擢された。
 ナポレオン3世はかねてからパリの大改造を考えていたが、さまざまな反対が予想され、豪腕を振るう部下がほしがっていたが、オスマンはその眼鏡にかなったわけだ。オスマンは地方官吏の人脈から優れた土木技師や造園技師を招き、保守的な役人を入れ替えて抵抗を排除し、3次にわたって大改造を実行した。これによってパリは近代都市へと生まれかわったが、このような都市計画の実行には巨大な資金が必要であり、また民有地の買い上げなどで地上げが横行し、不明朗な会計が指摘されるようになり、オスマンも銀行との癒着が問題とされて、ナポレオン3世もかばいきれなくなり、1870年元日にセーヌ県知事を罷免された。<鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』2004 講談社学術文庫 p.319- 第6章による>