ルテティア/パリ
ローマ時代のルテティア。カペー朝フランスの都となり、12世紀以降に発展し、13世紀にはフランスの中心都市として繁栄した。15世紀のブルボン朝ルイ14世は都を郊外のヴェルサイユに移したが、18世紀末フランス革命が起こり、パリは再び首都となる。ナポレオン時代の繁栄を経て19世紀のナポレオン3世時代に近代都市として改造された。七月革命、二月革命、パリ=コミューンの舞台となり、普仏戦争ではプロイセン軍、第二次世界大戦ではナチス=ドイツに占領された。その間も国際会議がこの地で何度も開催されるなど、世界の主要都市の一つとして存在している。
現在のパリ GoogleMap
ローマ時代からフランク王国へ
パリはフランスの中央に位置するが、フランスの政治・経済・文化の中心となるのは比較的後のことである。ローマ時代、ケルト人の居住する地域をローマでガリアといい、その属州とされていた時代(ガロ=ローマ時代という)にはルテティアといわれ交通の要衝とされていた。しかし、西ローマが滅亡すると、6世紀ごろにはこの地は衰退した。フランク王国が成立しても、ゲルマン人の国家は首都を定めずに居所を移動するのが常であって、その中でカール大帝が拠点として宮廷をおいたのはアーヘンであったので、パリは首都ではなかった。パリ伯ユーグ=カペー
西フランク王国のカロリング家の系統が途絶えて、987年にカペー朝が成立するが、それを創設したユーグ=カペーはパリ周辺とオルレアンに領地を持ち、パリ伯といわれていた。このころからフランスといわれるようになるが、カペー朝の場合も、当初は一定の都を持たず、オルレアンに滞在することも多かった。パリの発展
(引用)パリの発展は12世紀から始まる。その理由は、パリ盆地がフランス随一の穀物生産地域となったことのほかに、この当時の西欧経済の南北二極、つまり北イタリア諸都市とフランドル地方とを定期市で結ぶシャンパーニュの諸都市(トロワ、プロヴァン、ランなど)と、セーヌ川の水路を通じて直結していたからであった。また、市内のセーヌ左岸のサント=ジュヌヴィエーヴの丘に建つ大学(パリ大学)の名声が、ヨーロッパ各地から学生をひきつけた。1163年から着工されたノートルダム大聖堂の建立も、ルイ9世の時代にほぼ完成し、その治下の13世紀、パリはヨーロッパの経済・政治・文化の中心となる三つの条件を兼ね備えた。<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書>
ブルボン朝とパリ
パリは12世紀から15世紀はフランスの首都であったが、その後は16世紀のわずかな時期を除いて首都ではなかった。ブルボン朝のルイ14世は、パリにテュイルリー宮殿を作ったが、それとは別に20キロ離れた郊外にヴェルサイユ宮殿を作り宮廷を置いたので、フランス革命でルイ16世が連れ戻されるまで、パリは首都ではなかった。ロンドンがローマ時代の属州ブリタニアの州都であり、ノルマン征服以来、一貫してイギリスの首都であったのとは対照的である。パリ(19世紀の改造)
ナポレオン3世の時代にオスマン知事によって都市改造が行われ、現在のパリの原型できる。
オスマンの大改造の時に造られたパリの下水道<山川詳説世界史 p.257>"
(引用)第二帝政下の国土整備について語るものは、オスマン知事によるパリの改造事業に思いをはせる。この事業はナポレオン3世の個人的支持なくしては、完成しえなかった。それほどに反対の声が高かった。もちろんこの巨大なプロジェクトには、いくつかの政治的底意があった。たとえば市民の最もうるさい部分を郊外に押しやろうとする意図、あるいは古いパリにある狭くて曲がった道路ではなく、秩序維持のためにおり適切で広い幹線道路の建設などである。しかし改造の本質はそこにはない。ナポレオン三世は以前ロンドンの都市改造に衝撃を受けたことがあった。彼はパリを魅力的で管理しやすく、近代的なヨーロッパの都市にしたいと考えた。そこで人びとは街路や大通りを開通させ、荒廃した建物を取り払い、近郊を併合し(モンマルトル、グルネル、ペルヴィルなど)、小公園と噴水をつくり、古い記念物を邪魔者から解放したり、新しく建て替えた(ガルニエのオペラ座、シャトレ、サン=ドーギュスタン教会、ルーヴル宮の完成)。・・・<ティエリー・ランツ『ナポレオン三世』1995 文庫クセジュ 白水社 p.117-118>現在のパリを象徴する凱旋門を中心とした放射線状の街路が造られたのもこのときである。第二帝政下の繁栄を象徴する行事として、第1855年と1864年の2回、パリ万国博覧会が開催された。またそれより前の1852年にはパリで世界最初のデパートである“ボン=マルシェ”が開店している。
生まれかわったパリ
ナポレオン3世の意図の下、オスマンによって推進されたパリ大改造の最大の成果は技師ベルグランが担当した上下水道であろう。ベルグランは水源の確保と水道の整備を進め、いわばパリの下部構造を造り替えた。この時に造られた巨大な下水溝は、現在でも使用されている。また、上部構造ではブーローニュの森などの公園の整備、古い路地や行き止まりの小路を撤去して幅の広い道路建設など都市計画が進められた。これによって古いパリは失われ、フランス革命や七月革命、二月革命で市民がバリケードを築いた狭い通りは姿を消した。大改造の隠された意図に、民衆反乱の防止があったことはたしかであろうが、それだけを目的としたとは言えないだろう。オスマンは「改造」とは言わずに「美化」と表現していた。現在はパリの中心部とされているエトワール広場は、当時は凱旋門(ナポレオン1世が着手し1836年に完成)の廻りには何もないところだったが、オスマンは広大な広場を中心に放射状の大通りを配置して、新しいパリの中心となった。パリ発祥の地であるセーヌ川の中州のシテ島も、古い民家が密集する人口過密地域であったが、ノートルダム大聖堂などの一部を残して撤去され、公共建築地区に生まれかわった。新しいオペラ座も1862年に着工されたが工事が難航し、完成したのは第二帝政が倒れた後の1875年だった。<鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』2004 講談社学術文庫 第6章による>パリ(現代)
第一次世界大戦では戦火を蒙ることはなかったが、第二次世界大戦では1940年6月にドイツ軍に占領され、4年にわたる支配を受けたが、市民は抵抗運動(レジスタンス)を続け、1944年8月に解放された。戦後もヨーロッパの中心都市として繁栄が続いている。
第二次世界大戦とパリ
1940年6月、パリはドイツ軍に占領され、フランス政府は降伏し、ヴィシーに対独協力政府を作った。パリではドイツ軍に対するレジスタンスが始まった。その後、ドイツ軍占領は4年以上にわたって続き、パリではレジスタンスによる地下組織が生まれ、自由主義者・共産主義者にくわえて一般市民も加わり、抵抗を続けた。連合軍が反撃に転じ、ノルマンディーに上陸するなか、1944年8月、共産党員が主導してパリでストライキが始まり、それに呼応してドイツ軍に対する武力蜂起が開始された。ド=ゴールとの協力が必要と主張したグループは連合国軍に加わるド=ゴール派のルクレール将軍と連絡を取り、ド=ゴールも連合国軍を動かし、パリ解放に向かうことになった。1944年8月25日、ドイツ軍司令部は降伏してパリは解放された。その戦いでは先頭に立ったのは国内のレジスタンス組織の市民兵であったが、当日午後、直ちにフランス亡命政府(自由フランス)のドゴール将軍はパリに入り、政治的主導権を握った。ド=ゴールは国内レジスタンスの貢献を黙殺し「自由フランス」が第三共和政を継承する正当性を誇示した。<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書 p.204 などによる>「パリは燃えているか?」 ドイツ軍占領下のパリで、レジスタンスの活動が活発になり、ついに1944年8月19日、市街戦が始まった。ヒトラーは、ドイツ軍パリ防衛司令官のコルティッツ将軍にパリ破壊命令を出す。国内で家族を人質に取られている立場の将軍は逆らうことはできない。エッフェル塔やルーブルなど主要な施設の爆破準備に取りかかった。そのとき中立国スウェーデンの駐パリ領事ノルドリックがコルティッツと交渉、なんとかパリ破壊を思いとどまるよう説得に努めた。レジスタンス側にも主導権を巡る内部対立があり、連合国軍首脳の中にもアイゼンハウアーは直接ドイツに侵攻しようとしているのに対し、ルクレール将軍などフランス側はパリ救援を主張する。ようやくレジスタンス側が必死で連合軍に働きかけ、パリ解放に向かい、一斉にパリに進撃を開始した。ヒトラーのパリ破壊命令は戦略的に意味がないと疑問を感じていたコルティッツ将軍は、ノルドリックの説得を受けいれ、パリ破壊命令を中止する。ヒトラーが電話口でしきりに「パリは燃えているか?」と詰問する声には答えない。8月25日、そのときレジスタンスのフランス人部隊がドイツ軍の本部が置かれていたホテルに突入、コルティッツは従容として捕虜となった。その直後、ド=ゴールは歓喜の中パリに帰還、4年にわたったドイツ軍占領は終わり、「パリ解放」が実現した。これが映画「パリは燃えているか」や「パリよ永遠に」で描かれている話である。たしかにパリの歴史的景観がこれによって救われたのだが、一方でベルリンや東京が丸焼けになっていることをおもえば、「良かった良かった」と安堵するのにはやや抵抗感がある。
パリ同時多発テロ
2015年11月13日、パリのコンサートホール「ルバタクラン劇場」や市内のレストラン、カフェ、郊外のサン=ドニ地区の商業施設、サッカー場などで同時多発テロが発生、130人が犠牲となるフランス始まって以来のテロ事件となった。自爆テロや銃を乱射した実行犯10人のうち、9人は治安部隊との銃撃戦で死亡した。犯行声明を出したイスラーム原理主義集団の「イスラム国(IS)」は、フランス軍によるシリア空爆と、フランス人によるアッラーへの冒瀆に対する聖戦(ジハード)であると述べた。実行犯と協力者の多くはヨーロッパで生まれたアラブ系の若者で、フランスでの差別体験から過激派組織に近づき、一部はシリアに渡ってイスラム国で軍事訓練を受けたと思われる。いずれも犯人の自爆と銃撃による無差別の被害者は、ルバタクラン劇場での90人をはじめ、全部で130人の死者、約350人の負傷者に及んだ。オランド大統領は事件発生を受け、非常事態宣言を出し、テロリストとの戦争である、と表明した。
事件の前兆は同2015年1月7日のシャルリー=エブド社襲撃事件だった。これはフランスの週刊誌「シャルリー・エブド」が預言者ムハンマドを諷刺するマンガを掲載したことに憤激したイスラーム教徒が、シャルリー・エブド編集部を襲撃、風刺漫画家・編集部員ら12人を殺害した。フランスでは宗教への冒瀆は問題にならず、表現の自由が暴力で脅かされたことへの衝撃と反発が強まり、イスラーム教徒への恐怖感とともに差別感も広がった。また同年9月、シリアで過激派組織イスラム国(IS)が急速に拡大したのに対し、フランス空軍はシリアのIS訓練施設を空爆した。11月のパリ同時多発テロではISが犯行声明でこれらのフランスの行為に対する報復だと述べたが、実行犯のほとんどが死亡したため、犯行の動機や背景などがほとんど判っていない。
NewS オランド前大統領の証言
2021年9月8日から、130人が犠牲となったパリ同時多発テロ事件の被告を裁く特別法廷が始まった。この特別法廷では襲撃を生き延びた人たちの証言が続いた。そこで問われたのは、なぜフランスが狙われたのか、なぜ事件を防げなかったのか、についての政府の責任だった。証人の出廷要請を受け、11月10日、当時の大統領オランドが証言に立った。オランド前大統領は約4時間にわたって質問に答え、おおよそ「事件が起きるとは予測できなかった」、「事件前の9月のシリア空爆はテロの原因ではない」と弁明し、「フランスの自由で開かれた社会が狙われた」との認識を示した。特別法廷は2022年1月に被告人尋問が行われ、5月に結審する予定であるという。<朝日新聞 2021/11/12朝刊 記事により構成>