アフガニスタン保護国化
イギリスはアフガニスタンに侵攻(第2次アフガン戦争)、苦戦したが翌1880年、アフガニスタンの外交権を接収して保護国とした。
アフガニスタンのアフガン王国がイギリスとの第2次アフガン戦争の結果、1880年7月、イギリスに外交権を奪われ、その保護国となった。
イギリスがアフガニスタンを勢力圏として確保した狙いは、ロシアの南下を阻止することであった。しかし、アフガン王国を完全に抑えることは困難であったため、ここで保護国として影響力を確保し、さらに1893年にはアフガン王国とイギリス領インドの境界をスレイマン山脈山稜(デュランド=ライン)とすることで合意させ。カイバル峠から東のペシャワールなどは確保した。
20世紀に入り、アフガン王国では官僚制度の導入、産業の育成、教育の普及などの近代化政策が進められ、その間、民族的自覚も強まっていった。第一次世界大戦後の1919年5月、アマヌッラー国王が第3次アフガン戦争を起こしてイギリスと戦い、1919年8月8日、外交権を回復し、独立回復を承認させた。こうしてイギリスのアフガン王国を保護国として支配したのは、1880年から1919年の39年間に留まった。
保護国としての支配
第2次アフガン戦争ではアフガン側の激しい抵抗を受け、イギリス軍は事実上の敗北を喫していたが、外交交渉面では、イギリスは「アフガニスタンの内政には一切干渉しないが、アフガニスタンはイギリス以外のいかなる国とも政治的な関係を結ばない」との約束を取り付け、事実上の保護国化に成功した。また、戦後にイギリス寄りの国王(アブドゥル=ラーマン=カーン)を擁立することには成功した。イギリスがアフガニスタンを勢力圏として確保した狙いは、ロシアの南下を阻止することであった。しかし、アフガン王国を完全に抑えることは困難であったため、ここで保護国として影響力を確保し、さらに1893年にはアフガン王国とイギリス領インドの境界をスレイマン山脈山稜(デュランド=ライン)とすることで合意させ。カイバル峠から東のペシャワールなどは確保した。
20世紀に入り、アフガン王国では官僚制度の導入、産業の育成、教育の普及などの近代化政策が進められ、その間、民族的自覚も強まっていった。第一次世界大戦後の1919年5月、アマヌッラー国王が第3次アフガン戦争を起こしてイギリスと戦い、1919年8月8日、外交権を回復し、独立回復を承認させた。こうしてイギリスのアフガン王国を保護国として支配したのは、1880年から1919年の39年間に留まった。
パキスタンとの国境策定
デュランド=ラインの画定 1893年、アフガン王国のアブドゥル=ラーマン国王とインド帝国外相デュランドとの間で、懸案であったアフガニスタンとインドの国境線協定が締結された。アフガン側はアフガン人の最大部族であるパシュトゥーン人の居住地域であるペシャワール(かつてのプルシャプラ)付近を含むインダス川を国境とすることを主張していた。それに対してイギリスは植民地インドを防衛する観点と、農作物や綿花を産出する肥沃なパンジャブ平野を確保するという二つの理由から、スレイマン山脈の稜線を国境線とすることを提示し、それを認めさせた。その見返りとしてアフガン国王への補助金を年間120万ルピーから180万ルピーに引き上げることなどの補償を確約した。(引用)しかし、この国境線の画定はスレイマン山脈の東西にわたって広がるパシュトゥーン人の諸部族を人為的に分断するもので、民族の歴史と分布をまったく無視するものであった。また内陸国アフガニスタンが、現在のパキスタン西部を自国領とすることによって海に面した国家になる、という長年の夢を永遠に断つこととなった。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.69-71>国王はこの国境線はあくまで暫定的なものと解釈していたが、その後改定されることはなかった。デュランド=ラインはベンガル分割令のいわば西部版だったが、インドでは激しい抵抗運動が起こったのに対し、アフガンではそうした民族意識はまだ台頭していなかった。ところが、現代にいたって、大きな問題を引き起こすこととなった。ターリバーン政権の誕生や国際テロ組織のアフガニスタンへの流入はこの国境線とその周辺に存在するパシュトゥーン人の「トライバル・エリア」(部族の支配による自治区)が深く関わっている。<渡辺光一『同上書』p.69-71>