ベンガル分割令
1905年、インドの反英闘争の分裂を狙ってイギリスが出した政策。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して分割統治を進めようとしたが、国民会議派が強く反発し、インドの自治要求運動が激化する契機となった。
1905年、インド総督のカーゾンはベンガル地方をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒それぞれの多い地域に分割し、インドの民族運動の盛り上がりを抑えようとして、この法令を制定した。
インド総督は、ベンガル州が行政区画として広大すぎるという理由で、ビハール・オリッサ・アッサムの三区に分割したが、その分割線がベンガルの中心部を縦断し、ヒンドゥー教徒居住区とムスリム(イスラーム教)居住区を分ける線と重なっていた。その意図はベンガルに宗教的対立だけでなく言語・民族的対立をもち込んで、従来からの分割統治を進め、民族運動を抑え込もうとするものであったが、その意図は誰の目にも明らかだったので、国民会議派はただちにイギリス製品のボイコットとスワデーシ(国産品愛用)を決め、穏健派も過激派も一斉に反対運動に立ち上がり、カルカッタ(現コルカタ)の通りには母なる祖国に敬意を表する「バンデー・マタラーム」の歌声がこだました。イギリスは「集会取締条例」を発布するなどして弾圧を強化した。<辛島昇『インド史』初刊1996 再刊2021 角川ソフィア文庫 p.168->
しかし、20世紀に入るとイギリス帝国主義はアメリカとドイツ、さらにアジアにおける日本の台頭でその地位を脅かされるようになり、さらに1904年の日露戦争で、ヨーロッパの大国ロシアがアジアの新興国日本に敗れたことはアジア各地で抑圧されていた民族を刺激し、インドでも国民会議派の自治要求が強まった。
ベンガル分離令の撤回 ベンガル分割令そのものはバルカン情勢の悪化など、世界大戦の危機が迫まるなか、イギリスはインド側の要求を入れ、1911年12月に撤回した。それは国王ジョージ5世のインド訪問にあわせたものであった。このときはベンガルは一つの州にもどったが、アッサムとビハール・オリッサは分離され、結局、三州に分けられた。また、首都はカルカッタからデリーに移された。
このとき結成された全インド=ムスリム連盟のムスリムは、東ベンガルでは多数派になるという有利なベンガル分離令を支持した。その点ではイギリスの意図の通りであったが、1911年にベンガル分割令が撤回され、さらに1914年に第一次世界大戦が起きると、イスラーム教国でメッカの守護者であるオスマン帝国がドイツ帝国などの三国同盟側につき、イギリスがそれを攻撃するに至り、イギリス支持を撤回し、パン=イスラーム主義に向かうこととなった。第一次世界大戦はインドにも大きな影響を及ぼし、戦後のインドの反英闘争は、ガンジーなどの新たな指導者の出現など、大きく変化することとなる。
インド総督は、ベンガル州が行政区画として広大すぎるという理由で、ビハール・オリッサ・アッサムの三区に分割したが、その分割線がベンガルの中心部を縦断し、ヒンドゥー教徒居住区とムスリム(イスラーム教)居住区を分ける線と重なっていた。その意図はベンガルに宗教的対立だけでなく言語・民族的対立をもち込んで、従来からの分割統治を進め、民族運動を抑え込もうとするものであったが、その意図は誰の目にも明らかだったので、国民会議派はただちにイギリス製品のボイコットとスワデーシ(国産品愛用)を決め、穏健派も過激派も一斉に反対運動に立ち上がり、カルカッタ(現コルカタ)の通りには母なる祖国に敬意を表する「バンデー・マタラーム」の歌声がこだました。イギリスは「集会取締条例」を発布するなどして弾圧を強化した。<辛島昇『インド史』初刊1996 再刊2021 角川ソフィア文庫 p.168->
ベンガル地方とは
ベンガル地方はインドの東部、ガンジス川とブラマプトラ川(の下流のジャムナ川)が合流し、ベンガル湾に大三角州をつくって流れ込む一帯を言う。その東半分は、1947年のにインドと分離独立しバングラデシュとなっている。かつてムガル帝国時代にはベンガル太守がほぼ独立した地方支配権を持っていた。肥沃な地域で農業生産力が高かったので、イギリス東インド会社はこの地域への進出を狙い、1757年のプラッシーの戦いでフランスと結んだベンガル太守の軍を破り、ベンガル知事(初代知事クライヴ)を置いて支配を強め、1765年にはディーワーニー(徴税権)を獲得した。イギリスはこの地方でザミンダーリー制(ザミンダールという地主を介して徴税する)を実施して支配した。1774年にはベンガル知事に代わってベンガル総督をカルカッタに置き、東インド会社を監督する体制とした。そのころ本国で産業革命が進行し、イギリス資本主義にとってインド植民地の重要性が増すと、イギリス政府はインド直接支配への転換を強め、1833年にはベンガル総督に代わりインド総督を置いて全インド植民地を管轄させた。イギリス植民地支配に対する反発
インド大反乱を鎮圧した後、イギリス政府は東インド会社を廃止してインドを直接統治とし、さらに1877年には「インド帝国」というイギリス連邦を構成する領土として帝国主義的な支配を開始した。1885年に親英的な国民会議派が結成され、統治の補完物とされたが、次第に民族的な自覚が高まる中で、イギリスはインド人の中のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して統治しようという、いわゆる「分割統治」を強めるようになった。その分割統治の典型的な例がこのベンガル分割令であった。しかし、20世紀に入るとイギリス帝国主義はアメリカとドイツ、さらにアジアにおける日本の台頭でその地位を脅かされるようになり、さらに1904年の日露戦争で、ヨーロッパの大国ロシアがアジアの新興国日本に敗れたことはアジア各地で抑圧されていた民族を刺激し、インドでも国民会議派の自治要求が強まった。
インド総督カーゾンの立法
1905年、インド総督カーゾンはベンガル州を東西に分け、東=東ベンガルとアッサム地方、西=ベンガル本州とビハール・オリッサ地方とに分割する法令を施行した。表向きの理由は、人口8000万に及ぶベンガル地方を二分して、行政改革の実をあげると言うことがあげられていたが、実はこれによってイスラーム教徒の多数を占める東とヒンドゥー教徒が多い西とを分離させ、反英闘争を分裂させることを狙ったのである。これは時の総督の名をつけて、カーゾン法とも言われた。反対運動の高揚
ベンガル分割令は、もともと親英的だった国民会議派が、インドの自治を求める民族運動の指導的党派に転換する契機となった。ティラクら急進派(過激派)が台頭し、翌1906年12月にカルカッタで開催された大会で、四綱領-英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育-を掲げて大々的な反対運動を起こした。民族運動の分断
イギリスは、バネルジーやナオロジーらの穏健派とティラクら急進派の分断を図り、急進派に対してはティラクを逮捕するなど弾圧を加えた。その結果、1907年に国民会議派は分裂、再び穏健派が主流となった。さらにイギリスは、1906年12月、イスラーム教徒に対しては全インド=ムスリム連盟の結成を働きかけ懐柔を図った。運動は分裂と弾圧によって下火となったが、インド民族が初めて組織的な指導のもとで民族的な自覚を持ち、自治を求める運動に起ち上がった点が重要である。ベンガル分離令の撤回 ベンガル分割令そのものはバルカン情勢の悪化など、世界大戦の危機が迫まるなか、イギリスはインド側の要求を入れ、1911年12月に撤回した。それは国王ジョージ5世のインド訪問にあわせたものであった。このときはベンガルは一つの州にもどったが、アッサムとビハール・オリッサは分離され、結局、三州に分けられた。また、首都はカルカッタからデリーに移された。
このとき結成された全インド=ムスリム連盟のムスリムは、東ベンガルでは多数派になるという有利なベンガル分離令を支持した。その点ではイギリスの意図の通りであったが、1911年にベンガル分割令が撤回され、さらに1914年に第一次世界大戦が起きると、イスラーム教国でメッカの守護者であるオスマン帝国がドイツ帝国などの三国同盟側につき、イギリスがそれを攻撃するに至り、イギリス支持を撤回し、パン=イスラーム主義に向かうこととなった。第一次世界大戦はインドにも大きな影響を及ぼし、戦後のインドの反英闘争は、ガンジーなどの新たな指導者の出現など、大きく変化することとなる。