拝上帝会/上帝会
はいじょうていかい。清朝末期の中国で、洪秀全が始めたキリスト教の影響を受けた宗教団体。
拝上帝会とも単に上帝会とも表記される。洪秀全(1814-1864)は、1837年頃、夢の中で神の声を聞き、後に漢訳の聖書を読むことでそれがキリスト教の神であることを知り、神を上帝ととらえ直して、1843年に拝上帝教という宗教を起こした。次第に馮雲山・楊秀清ら同士を増やし、1844年頃までに広西省桂平県に拠点を置き、46年頃までに拝上帝会を組織した。
拝上帝会は当初はキリスト教の理念に近い唯一神への信仰を説き、偶像崇拝の否定や信徒の平等などを説いて客家といわれる差別されていた人々に広がった。次第に土俗的、呪術的なものに変質し、神懸かりになった幹部がエホバ(ヤハウェ)を上帝、キリストを天兄、洪秀全を天弟であるというお告げを下し、信徒を増やしていった。入会者は平等で男は皆が兄弟、女は姉妹と称した。キリスト教の十戒にならって十ヵ条の戒律を設け、邪宗信仰・殺人・傷害・アヘン吸飲・賭博などを堅く禁止した。中国南部で勢いを増した教団に対する弾圧が強まる中で、清朝政府に対する反発を強め、1850年秋に金田村 で蜂起し、翌1851年に「太平天国」を樹立した。
はじめは洪秀全の主導権は必ずしも明確ではなかったが、48年頃教団の客家出身の青年楊秀清に上帝が乗り移って(天父下凡)、洪秀全は上帝の子で天兄(キリスト)であり、世の人を救うために遣わされた「天下万国の真主」であるとの告げがあったされ、その絶対的主導権が確立した。
拝上帝会は当初はキリスト教の理念に近い唯一神への信仰を説き、偶像崇拝の否定や信徒の平等などを説いて客家といわれる差別されていた人々に広がった。次第に土俗的、呪術的なものに変質し、神懸かりになった幹部がエホバ(ヤハウェ)を上帝、キリストを天兄、洪秀全を天弟であるというお告げを下し、信徒を増やしていった。入会者は平等で男は皆が兄弟、女は姉妹と称した。キリスト教の十戒にならって十ヵ条の戒律を設け、邪宗信仰・殺人・傷害・アヘン吸飲・賭博などを堅く禁止した。中国南部で勢いを増した教団に対する弾圧が強まる中で、清朝政府に対する反発を強め、1850年秋に
上帝と天主
ゴッドの訳語についてはカトリックの布教開始以来、ローマ教会内部で論争があった。イエズス会は中国に古来あった「上帝」または「天」をあてたが、上帝は世俗的な支配者としての皇帝をさすので本質的に神の意味ではないという反対論がフランシスコ会などから起こり、1715年、ローマ教皇はこの訳語を禁止し、一律に「天主」の語を使用すべきであるとした。そのため中国ではカトリックが天主教と言われるようになった。<小島晋治『洪秀全と太平天国』初版1987 岩波現代文庫版 2001刊 p.40- >近代中国のキリスト教
清朝統治下の中国では、1723年の雍正帝の時のキリスト教の布教禁止以来、布教は途絶えていたが、19世紀に入り、イギリスの中国進出に伴って、福音主義を掲げるイギリスのプロテスタント諸派による宣教師の派遣が活発になった。その最初が、1807年にやってきたロバート=モリソンであり、彼は広州とマカオで布教に当たりながら、中国語に習熟し、辮髪に中国服、中国式の靴で歩き、箸を使って食事をするなど、その文化に溶け込んだという。また東インド会社の翻訳官を努めながら最初の英中辞典である『英華字典』を編纂した。また1819年に初めて本格的に新旧約聖書を翻訳し『神天聖書』としてマラッカで出版した。「ゴッド」は神か上帝か
モリソン訳の聖書の改訂版を出すこととなった1840年代に、宣教師の間で最も大きな問題となったのが、ゴッド God を何と訳すかであった。モリソン訳ではカトリックが使用した「天主」にこだわらず、「神」と訳す部分が多かったが、中国における神は多神教における神々の意味で使われるとしてそれを避け、「上帝」と訳すべきであるという意見もあった。両者の意見はついにまとまらず、二種類の聖書が刊行された。幕末の日本に入ってきたアメリカ人宣教師は「神」と訳した聖書を使ったので、日本では「神」が定着した。異なる文化間での言語の翻訳に関わる困難があったことが知られる。この件に関しては、<柳父章『「ゴッド」は神か上帝か』初版1986 岩波現代文庫版 2001刊 p.119- >を参照。洪秀全の拝上帝会
モリソン訳では「神」が使われていたが、モリソンに従って信者となった中国人梁発は、中国人にわかりやすく聖書を意訳で要約し、『勧世良言』というパンフレットを発行した。この書ではゴッドは神と共に神天上帝や上帝と記されていた。この『勧世良言』を読んでキリスト教を知った洪秀全は、唯一神であるエホバを示す漢語として「上帝」をつかい、その宗教を上帝教、あるいは拝上帝教と名付けた。洪秀全は、他にドイツ人宣教師ギュツラフの漢訳聖書を読んだらしく、そこでも上帝の語が使われていた。また彼は、布教のために書いた『原道醒世訓』などでは「皇上帝」とか、「天父上主皇上帝」などを使っている。本来、中国における上帝は至上最高の存在では会っても唯一神を表す語ではなく、むしろ道教で使われることが多かったが、洪秀全は民衆にわかりやすい存在として上帝の語を使用したものと思われる。洪秀全は上帝を唯一神エホバととらえ直して、偶像崇拝を打ち破って人々を正しい道に導く使命があると自覚し、拝上帝会の布教をはじめた。<小島晋治『洪秀全と太平天国』初版1987 岩波現代文庫版 2001刊 p.40- >拝上帝会の成立
洪秀全は1843年、4度目の科挙試験(府試)に失敗し、ついに拝上帝教を立ち上げることを決意し、まず自宅の孔子像を捨て去り、村のほこらなどを破壊して偶像崇拝を戒めることからはじめた。しかし故郷での布教ははかどらず、翌年、広西省桂平県紫荊山ですでに同じような信仰集団を作っていた馮雲山と合流し、1846年までの間に拝上帝会を組織した。すでに約3000人の信徒がいたという。洪秀全と馮雲山はモーゼの十戒に倣った天条書を作り、盛んに孔子像や土地神などの偶像破壊運動を展開した。はじめは洪秀全の主導権は必ずしも明確ではなかったが、48年頃教団の客家出身の青年楊秀清に上帝が乗り移って(天父下凡)、洪秀全は上帝の子で天兄(キリスト)であり、世の人を救うために遣わされた「天下万国の真主」であるとの告げがあったされ、その絶対的主導権が確立した。
拝上帝会の背景
広西省一帯は、人口増加にもかかわらず恒常的に土地が不足していた。特に移住民の後裔である客家は、地味のやせた土地で貧しい生活を送るものが多く、彼らは土地の有力者のよりどころとした土地神を崇拝する信条は薄かったので、現状への不満と現世利益を求める気分が、拝上帝会の土地神の否定、偶像崇拝の排除が受け入れられた。そのような客家や、それ以外の下層民の中に、洪秀全の「上帝だけを崇拝せよ、そのような正しい行いを守れば救われる」という教えは受け入れやすかった。太平天国への転換
一方、村の上層農民や役人は、拝上帝会が孔子像や村の神々のほこらなどを破壊する動きを強めると、それは従来の秩序を破壊する危険な動きであるとして警戒し、両者の対立は次第にエスカレートしていった。拝上帝会も社会秩序、さらに国家権力と衝突は避けられないと考えるようになり、太平天国という新たな権力を創出する「革命」へと向かっていくこととなった。