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ジャディード

19世紀、ロシア支配下の中央アジアで、イスラーム教徒の中から生まれた改革をめざす政治運動。

 19世紀の後半から20世紀にかけて、ロシアの保護国となっていた中央アジア・西トルキスタンのトルコ系ウズベク人の国家であるブハラ=ハン国ヒヴァ=ハン国において、イスラーム教徒(ムスリム)であるトルコ人としての宗教的・民族的自覚に基づき、教育の近代化などの文化活動を通じて、自立していこうという改革運動が起こってきた。そのような改革派のことをジャディードという。この運動の中心になった人々は、オスマン帝国の都イスタンブルに留学して戻ってきたブハラを中心とした知識人たちであった。ロシアは改革派の動きを危険視して厳しく弾圧した。ロシア革命後の1920年、彼らも加わってブハラ革命を起こしたが、その民族主義的傾向がソヴィエト政権と対立したため、運動は押さえられ衰退した。
 ジャディードという用語を高校教科書で取り上げている東京書籍世界史Bでは次のように説明されている。
ロシアに支配された中央アジアでは、ムスリム住民のなかでイスタンブルに留学した知識人による、教育改革を中心とする運動が展開された。新しい方式の学校の開設から、新聞・雑誌などを利用した政治運動(ジャディード運動)にまでおよんだ。ロシア当局やイスラーム保守派の妨害を受けたが、ムスリムに大きな影響を与えた。<『東京書籍世界史B』 2007 p.308より>

あるジャディードの肖像

 ヴォルガ中流のカザンを中心とするトルコ系イスラーム教徒タタール人は、商人として中央アジアのブハラにやってきたが、同時に多くの青年がイスラーム神学を学びに来ていた。しかし19世紀の後半のブハラのイスラーム神学は形式的なものに堕落しており、ロシアの保護のもとで蒙昧なアミール(君主)による圧政が行われており、改革の機運が高まりつつあった。
 そのようななかで、タタール人のガスプリンスキーがまず教育の改革をめざして開始したのが「新方式学校」で、トルコ系ムスリムの共通語としてトルコ語を取り入れ、従来のようなイスラーム教育だけでなく数学、理科、歴史、地理など教えようという教育近代化の試みだった。この「新方式」(ウスリ・ジャディード)を支持する人々はジャディード(改革派)と呼ばれるようになり、新方式学校をシャリーアからの逸脱として認めない保守派のウラマーと対立するようになった。
 またロシア当局は、ジャディードの運動を「汎ムスリム主義」または「汎トルコ主義」の現れとして危険視し、厳しく弾圧した。しかし1905年の日露戦争、1908年の青年トルコ革命などの影響でブハラを中心としたジャディードの運動は盛んとなった。多くの若者がイスタンブルに留学して新知識をもたらすようになり、1910年頃には「青年ブハラ人」が組織された。彼らは1917年のロシア革命以後、トルキスタンの民族独立運動を展開していくが、十月革命で成立したボリシェヴィキ政権のめざす社会主義国家建設には相容れられなくなり、反革命として弾圧されることになる。
 ジャディードの一人で、トルコ語による詩作や演劇などの文学作品を通じて民族の自立を進め、ブハラ革命でも大きな役割を担ったフィトラトは、スターリン体制が強まるなか、1937年7月に「反革命的な民族主義者」として逮捕され、他のジャディードとともに翌38年10月4日、銃殺された。その名誉が回復されたのはスターリン批判の行われた1956年であった。<小松久男『革命の中央アジア あるジャジードの肖像』1996 東大出版会 ジャディードの一人、フィトラトを取り上げて、ジャディード運動の詳細を論じている。>
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小松久男
『革命の中央アジア あるジャディードの生涯』
1996 東大出版会