ヤハウェ
ユダヤ教における唯一絶対の神。キリスト教でも創造主として継承される。厳格な偶像崇拝の禁止の教えから神像は造られていない。
一神教であるユダヤ教における唯一絶対の創造神をヤハウェという。ヤーヴェ、ヤハベ、エホバなどとも表記する。もとはユダヤの一部族神であったが、ユダヤ教が成立して、民族的な唯一神となった。なお、キリスト教の神も同じくヤハウェであり、またイスラーム教の唯一神アッラー(もともとアッラーとは「神」を意味する普通名詞)も本来は同じ神を意味していた。
ユダヤ教の思想では、ヘブライ人(ユダヤ人)たちがモーセに率いられて、出エジプトを行い、カナーンの地に戻る途中、シナイ山でヤハウェから十戒を授けられたという。彼らはこれを神との契約と考え、その契約を守ることによって救済されると信じ、ユダヤ教の教義が成立した。その十戒の中に、1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。とあるように、ヤハウェは厳格な一神教の神であり、人間の姿として現すことのできない、つまり偶像を造ってはいけないとされていた。この偶像禁止の教えは、ユダヤ教からキリスト教に引き継がれる、やがてローマ教会では布教の便法としてイエスやマリアの像を造るようになる。しかし、神そのものの姿を像とすることはできなかった。また、イエスやマリア像が認められるかどうかは、後の聖像崇拝問題として大きな問題となる。
紀元前1世紀にはヘロデ大王が大改修したが、その後パレスチナの地を征服したローマ軍によって70年に破壊された。ローマ帝国の時代にはイェルサレムの広場にはローマの主神ユピテルの神殿が建てられ、神殿の丘の跡地にはハドリアヌス帝が自身の騎馬像を建てた。しかし、ローマ帝国でキリスト教が国教とされると、ユピテル神殿は偶像を崇拝する異教徒の礼拝所として破壊され、神殿の丘跡地も荒廃し、イェルサレムのキリスト教徒(ビザンツ帝国の東方教会信徒)はその地をゴミ捨て場にしたという。
7世紀にイスラーム教を興したムハンマドには、イェルサレムの大きな岩から天馬に乗って昇天した、と信じられていた。638年にイェルサレムに入城した第二代カリフウマルはイェルサレムを見て回るうちに、かつてのヤハウェ神殿の跡地から大きな岩を発見、これこそムハンマドが昇天した場所だと信じ、あたりのゴミを片付け、モスクを建設することを命じた。そのモスクははじめ「ウマルのモスク」と言われ、後にウマイヤ朝カリフのアブド=アルマリクは、692年にモスクの中心の岩を覆う礼拝堂を建設した。それが現在の岩のドームである。またモスクの西側の壁は、もとの神殿の丘の遺跡として残されており、その一部が嘆きの壁といわれ、ユダヤ教徒がかつての栄華をしのぶための祈りを捧げる場所となっている。
ユダヤ教の思想では、ヘブライ人(ユダヤ人)たちがモーセに率いられて、出エジプトを行い、カナーンの地に戻る途中、シナイ山でヤハウェから十戒を授けられたという。彼らはこれを神との契約と考え、その契約を守ることによって救済されると信じ、ユダヤ教の教義が成立した。その十戒の中に、1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。とあるように、ヤハウェは厳格な一神教の神であり、人間の姿として現すことのできない、つまり偶像を造ってはいけないとされていた。この偶像禁止の教えは、ユダヤ教からキリスト教に引き継がれる、やがてローマ教会では布教の便法としてイエスやマリアの像を造るようになる。しかし、神そのものの姿を像とすることはできなかった。また、イエスやマリア像が認められるかどうかは、後の聖像崇拝問題として大きな問題となる。
ヤハウェ神殿とその後
前10世紀、ヘブライ王国のソロモン王は、イェルサレムに壮大なヤハウェ神殿を建設、ソロモン神殿ともいわれるようになった。前922年にヘブライ王国が分裂してからは、イェルサレムはにユダ王国の都となっていたが、前586年に新バビロニアのネブカドネザル王に滅ぼされたときに破壊されてしまった。そのときバビロン捕囚となったヘブライ人が、前538年にアケメネス朝のキュロス2世によって解放されてイェルサレムに戻り、ヤハウェ神殿を再建した。紀元前1世紀にはヘロデ大王が大改修したが、その後パレスチナの地を征服したローマ軍によって70年に破壊された。ローマ帝国の時代にはイェルサレムの広場にはローマの主神ユピテルの神殿が建てられ、神殿の丘の跡地にはハドリアヌス帝が自身の騎馬像を建てた。しかし、ローマ帝国でキリスト教が国教とされると、ユピテル神殿は偶像を崇拝する異教徒の礼拝所として破壊され、神殿の丘跡地も荒廃し、イェルサレムのキリスト教徒(ビザンツ帝国の東方教会信徒)はその地をゴミ捨て場にしたという。
7世紀にイスラーム教を興したムハンマドには、イェルサレムの大きな岩から天馬に乗って昇天した、と信じられていた。638年にイェルサレムに入城した第二代カリフウマルはイェルサレムを見て回るうちに、かつてのヤハウェ神殿の跡地から大きな岩を発見、これこそムハンマドが昇天した場所だと信じ、あたりのゴミを片付け、モスクを建設することを命じた。そのモスクははじめ「ウマルのモスク」と言われ、後にウマイヤ朝カリフのアブド=アルマリクは、692年にモスクの中心の岩を覆う礼拝堂を建設した。それが現在の岩のドームである。またモスクの西側の壁は、もとの神殿の丘の遺跡として残されており、その一部が嘆きの壁といわれ、ユダヤ教徒がかつての栄華をしのぶための祈りを捧げる場所となっている。