キリスト教の布教禁止(清朝)
1723年、清の雍正帝がキリスト教の布教を禁止した。清朝に使える宣教師は北京に残留を許したが、それ以外は国外かマカオに追放した。
清の康煕帝は積極的に宣教師を登用し、自らもヨーロッパの学問を学び、彼らの布教活動も容認、北京城内にも天主堂(教会)を建設することを認めていた。典礼問題が起こったため、イエズス会以外の宣教師の入国は禁止されたが、キリスト教布教は認められていた。しかし次の雍正帝は宣教師の活動に疑惑を感じ、即位直後の1723年、禁教に転換し、民間での布教を禁止した。ただし、政府に仕えている宣教師の北京残留と天主堂の所有は許した。残りの宣教師はすべて国外かマカオ(澳門)に退去させられた。これによって実質的な布教禁止となり、ヨーロッパからの学問の流入は中断されることとなった。
なお日本ではすでに豊臣秀吉の時の1587年にバテレン追放令が出されており、江戸幕府の徳川政権はさらに1612~13年に禁教令を出し、1630年代には鎖国政策を採って国内のキリスト教徒に対する厳しい取り締まりを行っている。→ キリスト教の禁止(日本)
しかし、再開されたキリスト教(特にプロテスタント)の布教は、中国民衆からはまさに侵略者の先兵と捉えられ、各地で教会焼き打ちなどの反キリスト教運動、いわゆる仇教運動が展開されていく。19世紀末にその運動が頂点に達したのが義和団事件(北清事変)であった。
なお日本ではすでに豊臣秀吉の時の1587年にバテレン追放令が出されており、江戸幕府の徳川政権はさらに1612~13年に禁教令を出し、1630年代には鎖国政策を採って国内のキリスト教徒に対する厳しい取り締まりを行っている。→ キリスト教の禁止(日本)
参考 ヴォルテールの論じたイエズス会の追放
清の雍正帝がイエズス会宣教師を国外退去にしたことに対して、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは『寛容論』(1763)で次のように論じている。(引用)シナでおそらく最も英邁かつ最も寛仁大度な雍正大帝がイエズス会士を放逐したというのは、いかにも事実である。しかしこれは皇帝が不寛容であったからではなく、その反対にイエズス会士たちが不寛容だったからにほかならない。イエズス会士自身が、その『異聞書簡集』のなかで、この賢明な君主が彼らに言われた言葉を伝えている。「朕は汝らの宗派が不寛容であるのを存じている。フィリピン諸島ならびに日本での汝らの所業も存じている。わが父の目を欺きおおせたからといって、朕をも欺けるとは思うまいぞ。」皇帝がイエズス会士に賜った御言葉の全文を一読すれば、この君主が人類で最も英邁にして最も寛仁であらせられのがわかるであろう。・・・世界の果てから皇帝の国土に派遣されたイエズス会士、ドミニコ会士、カプチン会士、在俗司祭らの破廉恥な喧嘩沙汰をお知りになるだけで、皇帝には十分であった。<ヴォルテール/中川信訳『寛容論』2011 中公文庫 p.41>
キリスト教布教の公認
19世紀になると、イギリスの中国進出に伴い、プロテスタントの宣教師がマカオを拠点に布教を開始したが、厳しい禁教政策のもとで布教は進まなかった。それでも、聖書の漢語訳が行われ、その影響を受けた洪秀全が拝上帝会を興し、清朝に対して明確な反旗を掲げて太平天国の反乱が始まる。その太平天国の反乱の間に、イギリスとフランスはさらに権益を獲得しようとして、アロー戦争を引き起こし、その結果として天津条約(1858)を強制した。この北京条約で、清朝政府は正式にキリスト教の布教を公認、1860年に批准され、さらに北京条約によって開港場以外の内地でもキリスト教布教が認められた。これによって中国でのキリスト教布教(カトリック、プロテスタントの双方とも)が再開された。しかし、再開されたキリスト教(特にプロテスタント)の布教は、中国民衆からはまさに侵略者の先兵と捉えられ、各地で教会焼き打ちなどの反キリスト教運動、いわゆる仇教運動が展開されていく。19世紀末にその運動が頂点に達したのが義和団事件(北清事変)であった。