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甲申政変/甲申事変

1884年、韓国で起こった、金玉均ら日本と結んだ急進開化派(独立党)のクーデタ。清とむすぶ閔氏を倒そうと日本軍の支援で王宮を占領したが、袁世凱の率いる清軍の反撃によって鎮圧され、失敗して金玉均らは日本に亡命した。日清両国は翌年、天津条約を締結して互いに撤兵した朝鮮における日本の勢力は後退し、宗主国清の存在が大きくなった。同時に両国は出兵の際の相互通告を約束、10年後の東学の乱でいずれも出兵し、日清戦争につながる。

 1884年朝鮮王朝(李朝)の独立党=急進開化派によって起こされたクーデタ。壬午軍乱以後、清は六〇〇〇名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、その軍事力を背景に、閔妃政権に対し宗主権強化策を進めた。それに反発して、開化派の中の急進派である金玉均・朴泳孝らは独立党を結成し、日本公使竹添進一郎と結んでクーデタを計画した。
 1884年、清仏戦争が起こり、清がフランス軍との戦いに直面したため、朝鮮の漢城滞在兵力をベトナムに廻すという情報が入った。金玉均らは日本公使竹添進一郎と謀り、この機会にクーデタを実行して高宗周辺の閔妃ら、保守派=清国派を一掃し、急進開化派政権を樹立しようと考えた。1884年12月、日本軍を動かして王宮を占領、閔氏一族の要人を殺害して高宗を擁立して実権を握った。しかし閔氏を支援する清の李鴻章はただちに介入し、袁世凱の率いる清軍がクーデタ部隊と日本軍を攻撃、撤退させたため、開化派政権は三日で崩壊した。クーデタは失敗し、金玉均・朴泳孝等は日本に亡命した。翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。

甲申政変と日本の関係

 日本政府の公式見解では、甲申政変(事変)に関して日本側は民間人であろうと竹添公使であろうと誰も関係していないとした。しかし、このクーデタ計画には日本政府と福沢諭吉らの民間人が関わっていたことが様々な史料から明らかになっている。山辺健太郎の著作『日韓併合小史』1966などによって述べると次のようになる。
 壬午軍乱後に日本を訪れた金玉均は福沢諭吉と会い、日本の明治維新以後の発展と資本主義文明の成果を見て、日本の後援で朝鮮の国内改革をやろうと決意した。そのためには親清派である閔氏一派の政権を倒さなければならぬと考え、クーデタ計画を福沢諭吉と後藤象二郎に相談した。この動きは外務卿井上馨も知ることとなり、井上は福沢・後藤とともに金玉均を扇動してクーデタを日本軍の武力に頼っておこなうことにさせ、ソウル駐在の日本公使館竹添公使との間で詳細な計画が練られた。当時のソウルでは日本軍はわずか1個中隊にすぎないのに清軍は千五百名の兵が駐留していたが、竹添公使は少数の日本兵で清国兵を蹴散らすことができると金玉均をけしかけた。

甲申政変の経過

クーデタ計画 1884年12月4日、ソウル郵便局の落成式が挙行され、開会の宴に政府の要人、外国領事などが参加した。その最中、隣家から火の手が上がり、慌てた要人が屋外に飛び出すとまず閣僚の一人閔泳翊が斬りつけられた。その場に参加していた金玉均、朴泳孝らは、急ぎ王宮に避難するよう誘導した。実は金玉均の計画ではまず王宮で放火し、祝宴会場から王宮に駆けつけようとする要人を途中で殺害するというものであったが、王宮放火に失敗したため、急遽作戦を変更したのだった。
王宮での殺害 王宮昌徳宮に駆けつけた金玉均らは国王を清国軍が攻めてくるとだまして狭い景祐宮に移し、高宗の許可を得て身辺警護のため日本軍の出動を日本公使竹添進一郎に要請、日本軍150名が王宮とその周囲を警備のため出動した。要人が急いで景祐宮に駆けつけると金玉均は清国派(保守派)と閔氏一派だけを一人ずつ宮中に引き入れ、次々と殺害した。この時殺害されたのは、李祖淵、韓圭稷、尹秦稷、閔台鎬、閔泳穆、趙寧夏など反開化派の要人であった。
新政権 翌日、金玉均らは大院君派(反閔妃)と開化派(穏健派も含む)からなる新政権の組織に取りかかり、さらに次の日には新政綱を発表した。新政綱には大院君の帰国、清国への従属外交(事大主義)の否定、門閥打破、人民平等、地租法改正など14条に渡る改革案を掲げた。この新政綱は、朝鮮の主権国家、立憲君主政、自由や平等といった市民社会、産業の育成といった近代国家への脱皮を目指す最初の提言として価値はあるものの、広く国民に訴えたものではなく、また国民に支持を訴えたものでもなかったため、クーデタの失敗と共に消滅した。
反撃 閔妃は秘かに清に軍の出動を要請、国王高宗に昌徳宮に戻ることを強請し、国王も従った。ソウル市内では開化派が日本人と結託して国王と王妃を監禁し、大臣らを殺しているという風聞がひろがり、開化派と日本人への反感が強まった。12月6日、1300ほどの清軍が袁世凱などに率いられて日本軍の籠もる王宮に攻撃を開始、市民の中にもそれに呼応するものが現れた。金玉均ら開化派幹部は抵抗したが手勢はわずかとなり、竹添日本公使は日本兵を撤兵させたため、三時間で勝敗は決し王宮は清軍に占領された。
逃亡 国王一家は銃弾が飛び交う、王宮の後方の後苑(現在の秘苑)に避難し、国王に従おうとした穏健開化派の洪英植らは途中で清兵によって殺された。クーデタ計画の首謀者金玉均、朴泳孝らは撤退する日本軍と共に逃れ、日本公使館に保護された後、仁川から日本の千歳丸に乗って日本に渡った。こうして急進開化派と日本公使館が組んだクーデタ計画は失敗に帰した。
開化派クーデタ失敗の原因 甲申政変を主導した独立党=急進開化派は、最年長の金玉均が34歳、洪英植は30歳、徐光範は26歳、朴泳孝は24歳という若さだった。彼らはクーデタの失敗によって「逆賊」「親日走狗」とののしられることとなり、日本に亡命した金玉均は反逆者として命を狙われることとなった。彼らのクーデタ失敗の原因には次のようにまとめられる。
  1. 開化派の近代化政策を支持する社会層が十分成長しておらず、開化派は宮廷内の力関係だけで権力を握ろうとしたこと。
  2. 開化派はその思想を民衆にひろげようとはしておらず、基盤は両班層にあり、封建的支配下にあった農民の解放という観点が少なかったこと。
  3. 清仏戦争で敗北した清を過小評価し、日本軍を過大に評価して依存しようとした情勢判断の誤り。
<以上、山辺健太郎『日韓併合小史』1966 岩波新書 p.64-72/姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.71-77/趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.76-80 などにより構成>

政変後の政治と外交

 甲申政変が失敗し、急進開化派が一掃された朝鮮王宮では保守派と穏健開化派による連合政権が成立、急進開化派が進めた改革はすべて撤回された。朝鮮の政治的混乱は、壬午軍乱に続いてこの甲申政変においても清の介入で秩序が回復され、閔妃も二度にわたって清軍に助けられるという結果となったため、宗主国としての清の力は一層強くなった。
漢城条約 金玉均のクーデタ支援に失敗し、いったん居留民と軍隊を漢城から引き上げた日本は勢力の挽回が大きな課題となった。1885年1月、全権公使に井上馨(長州出身で維新の元勲の一人とされる大物)を任命、井上は7隻の軍艦と二個大隊をひきいて仁川に上陸、漢城で朝鮮側の全権金弘集と談判し、公使館焼失と居留民の被害に対する謝罪と損害賠償、公使館修繕費用の負担を認めさせた漢城条約を締結した。クーデタ計画への関与は不問に付され、壬午軍乱後の済物浦条約と同じ構図となった。
天津条約 甲申政変の事後処理としての日本と清の交渉は1885年4月から天津において、日本全権伊藤博文と清国全権李鴻章の間で行われ、天津条約が締結された。
  • 4ヶ月以内に日清両国は朝鮮から撤兵する。
  • 朝鮮軍の訓練には日清両国がともに当たること。
  • 将来、どちらかの国が重大な事情により朝鮮に派兵する場合は、相手側に事前通知すること(行文知照)。

福沢諭吉の脱亜論

 福沢諭吉は1880年に朝鮮の金玉均・朴泳孝らが日本に派遣した開化派と会って以来、その運動に協力し、朝鮮人青年を留学生として慶応義塾にうけいれた。1883年には金玉均の世話で44人の青年が慶応義塾に学び、その後陸軍戸山学校に入学しているが、彼らは甲申政変で行動隊として参加し、その後の朝鮮の開化運動の指導者となっていった。また福沢諭吉は、留学生が朝鮮に帰ってから近代的新聞『朝鮮旬報』を刊行することに協力している。このように福沢諭吉は朝鮮の開化派の運動の理解者、協力者であった。
 しかし、福沢諭吉の朝鮮問題にかんする議論は、詳細に見るとその独立を支援する側面と、日本の国権を朝鮮に広げようという意図を最初から認められる。朝鮮に対しては日本は常に優位に立つべきであり、「かの人民、果たして頑陋(がんろう)ならば之に諭して之に説く可し」(1882年『時事新報』3月11日付「朝鮮の交際を論ず」)と言っている。
 1884年12月、甲申政変が失敗した後、彼は有名な『脱亜論』を『時事新報』(1885年3月16日)に発表し、「我国は隣国の開明を待てともに亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可きのみ」と主張するに至る。<姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』1977 平凡社選書 p.172-186>
 日本では一万円札にも肖像が用いられ、国民的な偉人とされているが、韓国では今でも日本の一万円札を見ると不快になるという人がいるほど、福沢の人気は伊藤博文に次いで悪い。