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壬午軍乱

1882年、朝鮮王朝の閔氏政権とそれを支えた日本に対する兵士の反乱。大院君政権が一時復活したが、清が介入して閔氏政権を復活させた。結果として清の朝鮮に対する宗主権が強化された。

 じんごぐんらん。朝鮮王朝(李朝)の閔妃とその閔氏政権は、開化政策を進めるたが、それによって財政出費がかさみ、兵士への俸給が滞った。それに反発した兵士が、閔氏政権とそれに協力する日本への反発を強め、1882年に反乱を起こした。この事件を壬午軍乱、あるいは壬午事件という。

閔氏政権・日本に対する軍民の反乱

 反乱軍は閔氏の有力者を殺害、日本公使館を襲撃し日本人軍事教官を殺害、閔妃は王宮を脱出した。反乱軍は閔氏政権を倒し、代わって大院君政権が復活した。反乱のきっかけは下級兵士の不満から始まった暴動であったが、日本とそれに追従する閔氏政権に対する反発から、政権を倒すところまで発展した。

清の介入で鎮圧される

 この反乱は一ヶ月後に清が出兵して干渉し、鎮圧された。反乱軍を鎮圧することに成功した清は、大院君を捕らえ天津に連行し、優位に立ってその圧力により閔氏政権を復活させた。日本は乱後、閔氏政権と交渉して済物浦条約(さいもっぽ。仁川の旧名)を締結し、日本公使館が焼却されたことに対する賠償金の支払い、公使館護衛のための日本軍駐留などを認めさせた。後の日清戦争のきっかけとなった甲午農民戦争の際、日本軍が朝鮮に出兵する根拠としたのがこの済物浦条約であった。
POINT  壬午軍乱で得たものは日本よりも清の方が大きかった。清は朝鮮に対し、軍隊の駐留、政治・外交の顧問設置、中国朝鮮商民水陸貿易章程の締結によって朝鮮が清の属邦であることを明記させ、清が領事裁判権をもつ不平等条約として締結すること、などに成功した。この清の影響力の強化によって、朝鮮内の開化派は、清と結ぼうとする穏健派(清国党)と、反発するする急進派(日本党=独立党)に分裂、急進派が排除されたため危機感を強め2年後に甲申政変を起こすことになる。

壬午軍乱の経過と影響

背景 閔氏政権は改革派が力を付け、日本にならった改革を進めたが、その費用を増税に依存した。同時に開国によって貿易が開始され、米穀などが大量に日本に輸出されたため物価騰貴が起こった。一方で閔妃一族による政権独占により政治は腐敗し、不正が横行した。増税と開国に伴う物価高騰に苦しめられた民衆の中に、閔氏政権とその背後にある日本への反発が強まったことが事件の背景にあった。
勃発 直接的な導因は、兵士への現物給与が滞ったことであった。軍隊の兵士の給与は米穀の現物支給となっていたが、開国の影響による米穀の不足から、その支払いが13ヶ月もの間、滞った。1882年7月19日、ようやく数ヶ月分の米穀が支払われたが、そこには屑米や腐米、砂などが混じっており、実際には支給額は半分ほどにしかならなかった。倉庫を管理する宣恵庁の倉吏が横領したのである。憤った兵士が倉吏と格闘になり、倉吏一人が殺された。宣恵庁の長官閔謙鎬が兵士を捕らえようとしたところ、兵士は旧名のため立ち上がり、漢城内の貧民にも呼びかけて蜂起した。
拡大 反乱を起こした兵士は、閔氏政権と対立していた大院君に頼り、その指示によって23日に日本公使館を焼き打ちし、別技隊(日本軍に倣って宮廷警備のために新設された軍隊)の日本人教官堀本礼蔵を殺害、さらにできたばかりの日本公使館を焼き打ちした。花房義賢公使らは漢城を脱出、途中仁川で大院君の差し向けた反乱軍によって数名が殺害されたが、公使は辛くも逃れ、仁川に停泊していたイギリス船に救出されて日本に非難した。日本は公使館を焼かれ16名の殺害されるという犠牲を出した。反乱軍と加わった民衆は、24日、王宮に押し入り閔謙鎬らを殺害、閔妃をも殺害しようとしたが、閔妃は宮女と偽ってかろうじて脱出した。追い詰められた高宗はやむなく25日、大院君に国政を委ねることを宣言、大院君の策謀が成功したかに見えた。
介入 大院君はただちに閔妃一族を政権から排除し、閔妃も死亡したと発表した。改革をすべて元に戻す命令を出した。しかし反乱勃発時に天津にいた開化派の金允植と魚允中は清国政府に、この事件は大院君による陰謀であり、このままだと日本の介入が行われる恐れがあると訴えた。清国政府はただちに介入を決定し、北洋艦隊と陸軍を派遣、8月26日に清軍は袁世凱が指揮して大院君を拉致して天津に移し、軍乱軍と民衆を鎮圧した。
分裂 壬午軍乱後に復権した閔氏は、保守派の大院君派を排除して開化派と結ぶことになった。しかしこの頃開化派は、日本と結ぶことによって清の宗主権からの離脱と完全な独立を実現しようとする急進的な金玉均、朴泳孝らのグループと、金弘集、金允植、魚允中らの清朝とも妥協しながら実務的な政治を行おうとする穏健派に分裂した。一般に前者の急進派は独立党とも言われる。閔妃政権は大院君を排除したこの段階では穏健な開化派を取り入れるようになったが、急進的な独立党は次第に除外されるようになっていった。
条約 8月16日、日本の花房義賢公使は軍艦4隻と陸軍歩兵一大隊を従えて漢城に戻り中国側と折衝した。清が大院君を拉致して事件を収束させようとしていることで安堵した。清が日本に対し朝鮮に対する宗主権を認めるよう主張した場合には、日清開戦もやむなしと覚悟していたが、それは杞憂に終わった。日本と朝鮮は28日から仁川で交渉に入り、30日に済物浦条約に調印した。済物浦条約では軍乱首謀者の逮捕処罰、被害者への賠償金5万円、国家賠償50万円、日本公使館警備のための日本軍の駐留などが認められた。
反発 日本では明治政府寄りの新聞では事件での日本公使館焼き打ちが大きく報じられ、それに反発して報復的な出兵を主張する声が強かった。花房公使の脱出は劇的な錦絵で描かれ、朝鮮に対する敵愾心があおられた。福沢諭吉も主催する『時事新報』で清朝を意識して十分は兵力の出兵を訴え、兵端を開く覚悟と賠償金を取るべきだと訴えた。当時盛んだった自由民権運動では、派兵や賠償金請求への慎重論が多かった。中江兆民は「富国」と「強兵」の矛盾を指摘、強兵ではなく小国であっても正義の道を歩むべきだと言っている。しかしいずれも底流には壬午事変においても朝鮮に対する日本の優越感が認められ、日本の指導的立場を当然とされていた。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.61-68>
清の宗主権の強化 壬午軍乱においては日本も一定の権益を確保したが、清は軍乱を鎮圧したことによって従来の宗主権をさらに強化し、日本を上まわる権益を獲得した。軍事面では、袁世凱が淮軍のう3000名を朝鮮に留め、その指揮下に朝鮮軍を改編した。貿易面では中国朝鮮商民水陸貿易章程を締結して、その前文で朝鮮が清の属邦であることを明記し、清のみが領事裁判権を認めさせた不平等条約を押しつけた。さらに清は李鴻章の推薦する馬建常とドイツ人メルレンドルフを外交顧問として送り込んだ。閔妃政権はこの強い清の宗主権の下で穏健開化派を政権に参加させた。<大谷正『日清戦争』2014 中公新書 p.11>
独立党 壬午軍乱後の朝鮮政府では、閔妃政権のもとで清の宗主権が強化され、急進開化派(独立党)の金玉均、朴泳孝らは徐々に排除されていった。清の発言力が強まり、改革が徐々に停滞していくことに、彼ら独立党は強く焦りを感じるようになっていった。その独立党が次に立ち上がったのが1884年甲申政変である。
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趙景達
『近代朝鮮と日本』
2012 岩波新書