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閔妃/閔氏

朝鮮王朝の王妃。高宗の王妃となったことで一族が登用され、大院君の引退後、1875年ごろから閔妃及び一族が実権を握ようになった。その後、清・ロシアと結びながら日本の影響力除外に努める。日清戦争後の1895年、日本人軍人らにに殺害された。

 閔妃(1851-1895)は日本では「びんひ」と読むことが多いが、韓国語発音では「ミンビ」。朝鮮王朝(李朝)の高宗の王妃。幼名は紫英と伝えられているが、朝鮮では結婚してからもとの姓に○氏夫人をつけて呼ばれるだけなので、彼女も「高宗の閔氏夫人」といわれるだけで名は伝えられていない。その死後に諡号(追贈される称号)として明成皇后という。閔氏は京畿道驪州の地方豪族(両班)で、彼女は叔母が大院君夫人であったことから選ばれて1866年に高宗の正妃となった。高宗は12歳、閔妃は13歳であった。
注意 閔妃は公式にも私的にも肖像写真を残していない。朝鮮王朝では王妃が臣下に顔を見せることさえしなかったので写真がないことは不思議ではない。日本では角田房子の『閔妃暗殺』のカバー写真が閔妃の正装した写真として広く使われていたが、最近の研究ではこれは閔妃ではなく、王宮の女官の正装姿を撮したものである可能性が高いことが判明した。<金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009 高文研>

高宗の親政

 高宗は1863年に即位していたが、まだ幼少であったので、父の大院君が政治の実権を握り、積極的な内政改革と対外強硬策(鎖国策)がとられていた。大院君は民衆の人気も高いことを背景に独裁的な政治を行ったので、次第に官僚層から忌避されるようになり、1873年に高宗が成人したことによって大院君は引退させられ、高宗の親政となった。代わって王妃の出身氏族である門閥貴族の閔氏一族が、要職に登用されるようになった。王妃の一族が国政の実権を握ることは朝鮮王朝でもたびたび繰り返され、それは世道(あるいは勢道)政治と言われて朝鮮の政治を停滞させる要因となっていたが、閔氏政権もそのような世道政治の復活と見られた。しかし当初は高宗の独裁的な面が強く、閔妃の政治介入も強くはなかった。
危機の中の閔氏政権 しかし、70年代後半から80年代は朝鮮にとって外圧と内政の困難が深刻となり、朝鮮王朝の危機が続いた。その間、高宗の姿勢も、開化と保守の間でゆらぎ、また朝鮮に介入する清、日本、ロシアの三国との関係も定まらず、常に変動し、その中で、賢明な判断をする閔妃が次第に宮廷で重きをなし、その一族も大きな力をもつようになり、80年代~90年代には閔氏政権ともいわれるようになる。しかし閔氏政権もその政治的姿勢には一貫したものはなく、特に対外的には清、日本、ロシアに引きずられる面が多かった。また権力から退いたとは言え、大院君は閔妃・閔氏一派とは常に敵対して復帰の機会を狙い、政治的緊張が続いた。そのため閔妃自身も何度か政変に巻き込まれ、危険な状況に直面したが、最後は1895年に日本公使館の差し向けた暴徒によって殺害されるという閔妃暗殺事件で最後を迎える。
 朝鮮の危機そのものを体現していたとも言えるその波瀾にみちた生涯の中から、重要事項を述べてみよう。

壬午軍乱

 高宗・閔氏政権が開国政策に転じ、1876年日朝修好条規を締結して日本に対する開国に踏み切ったことで、宮廷内でも開化派が台頭し、日本の指導で新たな国王親衛部隊が編制されるなど、改革が進んだ。しかし、開国によって米穀が不足して旧来の部隊の兵士への給付が遅れたことをきっかけに、1882年7月10日に壬午軍乱が勃発した。この時は大院君が復活し、閔氏一族は一時排除され、閔妃も危機に陥った。しかし、清がただちに介入し、大院君は天津に拉致されたので閔妃政権は復活することができた。

Episode 王妃は生きていた!

 1882年7月、壬午軍乱を起こした兵士や民衆は、その怒りを閔氏一族とその頂点にいる閔妃に向けた。大院君に煽動された暴徒は、王宮内に乱入し閔氏の重臣を引き出して殺害、さらに日本公使館を焼き打ちし、閔妃を捜し求めた。しかし、閔妃の死体は見つからないまま、7月24日に大院君は閔妃は死去したので葬儀を行うと発表、28日に葬儀を強行したが、その棺に遺体はなく、代わりの衣服だけが入っていた。役人たちはその衣服の入った棺の前で「哭礼」、つまり大きな泣き声を上げてその死を弔う儀式を行った。
 閔妃は実は生きていた。昌徳宮に暴徒が乱入したとき、王妃は捕らえられそうになったが、警備に当たっていた洪在羲という兵士が機転を利かして自分の妹の尚官(サングン、女官)だと言いはり、王妃を背負って逃げだすことに成功したのだった。宮中を逃れた閔妃は故郷の同族、閔氏の家に匿われた。大院君は閔妃の遺体が見つからないまま、死んだことにして葬儀を強行したが、事態は暗転した。8月23日に事件に介入した清軍は漢城に入り、27日強引に大院君を拉致し天津に連行してしまい、政権はもとに戻された。故郷に隠れていた閔妃は清軍に守られて9月7日に漢城に戻った。わずか一ヶ月前に「死せる閔妃」とされた閔妃が、今度は「生ける閔妃」として遷宮したのだった。<木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.134-144>

甲申政変

 壬午事変は清の介入によって鎮定され、高宗と閔妃も清軍に守られて政権に復帰した。そのため、それ以後は清の朝鮮に対する宗主権は強化されることになった。そのもとで、開化派の中の穏健派が清の意向に添って政治を担当するようになったが、清の宗主権から脱して日本にならった改革を実施したと考えていた金玉均や朴泳孝は次第に政権から除外され、焦りを強めていった。かれらは1884年12月に甲申政変(甲申事変)といわれるクーデタを実行し閔台鎬らの閔氏一族を含む政府要人を殺害した。閔氏一族は再び政権から追われ、金玉均ら独立党は一時権力をにぎったが、この時も清軍が介入してクーデタを支援した日本軍も撃退されたため、政権は3日間で倒れ、閔氏が政権に復帰した。閔妃は、壬午軍乱と甲申政変の二度にわたり、清によって危機から救われたことになり、清に対する思いは強くならざるを得なかった、と思われる。

政治的発言を強める

 閔妃は公的には政治的な地位にあったわけではなく、王宮の内廷において王妃として存在することで国王高宗に強い影響を与え、また内廷に王妃の親戚として出入りすることのできる閔氏一族を高官に取り立て、間接的に政治を動かしていた。しかし、甲申政変後になると、王宮における王が臨席する閣議において、王の後ろの簾の中から国王に指図し、国王がそれに従って発言する場面が多くなったという。そしてやがてその明晰な発言は、国王を凌いでしばしば直接、高官や役人を動かすようになった。

日清戦争と甲午改革

 1894年2月に甲午農民戦争が勃発し、日清両軍は朝鮮に出兵した。1894年7月23日未明に日本軍は朝鮮王宮を占領して高宗に対して清軍の撤退命令を出させ、清軍がそれを受け入れなかったことから1894年7月25日日清戦争の開戦に踏み切った。並行して朝鮮王朝政府から閔妃一族や親清派を排除し、日本公使井上馨はまたまた大院君を担ぎ出して摂政とし、実権を親日的な開化派金弘集に握らせ、事細かに改革を要求した。この甲午改革によって科挙の廃止、両班身分の廃止、財政の近代化など画期的な政治の近代化が図られたが、高宗と閔妃は従来の国王による専制政治の幅が強く狭められることに強い不満を持った。

Episode 閔妃、日本公使に直接語る

 1894年11月4日、日本公使井上馨は高宗と閔妃に直接会見することを申し入れそれが実現した。此の時はじめて井上は、日本の示した改革案に閔妃が直接、意見を述べるのを聴く機会が訪れた。このとき閔妃は次のように言ったという。
(引用)我国に何にも頼むべき事とてはなけれども只だ独り君権の重大なる一事是なり。古来国民の頭脳に染入りし君上の命令とさえ云えば是非曲直の差別なく直に黙従する事なり。されば内政改良の如き開化主義の如き、君主上あって一たび之を主張すれば必らず下万民をして風靡せしめざるは無し。故に以上の目的を達するには君権に因れば此際好手段と思わるるなり。<木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.224 引用の 『日韓外交史料:第四巻』p.198>
 ここには、閔妃が日本の示した改革案が国王から絶対的権限を奪うことになることを最も恐れていたことを読み取ることができる。高宗と閔妃が不満としていたのは、改革そのものよりも、改革によって、高宗の権力、つまり「君権」が失われ、臣下の権力「臣権」に取って代わられることだった。<木村幹『同上書』p.225>

参考 イギリス人女性と会見した閔妃

 1895年の初め、宮中で閔妃と会見したイギリス人女性旅行家イザベラ・バードは、その著『朝鮮紀行』の中で、詳しく閔妃の印象を語っている。王妃から内々に会いたいと招待を受け、アメリカ人宣教師アンダーウッド夫人とともに訪ねたのだった。宮中の様子など興味深い部分もあるが、ここでは閔妃の様子を伝えているところだけを引用しよう。閔妃と実際にあった日本人は上述の井上馨ぐらいしかおらず、その姿は写真も含めて日本では殆ど知られていない。むしろ意図的に「悪女」に仕立てられた伝聞だけが広まっているので、本当の姿を知る上では貴重(誰でも読むことのできる文庫本に記されていることだが)な情報となるだろう。
(引用)王妃はそのとき40歳をすぎていたが、ほっそりしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており、真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。王妃は濃い藍色の紋織り地の、ひだをたっぷりとって丈の長い、とてもゆったりしたハイウェストのスカートと、たっぷりした袖のついた深紅と青の紋織りの胴着という衣装だった。……話しはじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、かぎりなく美しさに近いものを帯びた。……王妃はわたしに親切なことばをさまざまにかけて丁重かつ明敏なところを示したあと、国王になにか言った。すると国王がただちに会話に加わり、おしゃべりはさらにさらに半時間つづいた。……<イザベラ・バード/時岡敬子訳『朝鮮紀行』1998 講談社学術文庫 p.329-332>
 その後、4度にわたって会見することとなったバードは、閔妃の置かれた状況を次のように分析している。
(引用)(4度の会見の)どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。その政治的な影響力がなみはずれてつよいことや、国王に対してもつよい影響力を行使していること、などなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父大院君を主とする敵対者たちはみな、政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いをつのらせている。王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と鋭い洞察力と知恵のすべてを動員して、権力を得るべき、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失墜させるべく闘っていた。……<イザベラ・バード『同上書』p.333>

Epsode 閔妃、ヴィクトリア女王を思う

 高宗と閔妃は4度にわたってイザベラ・バードとの会見を行ったが、夫妻が熱心に訪ねたことは、イギリスでの国王と国民の関係だった。そのなかで閔妃はこう述べたという。
(引用)王妃はヴィクトリア女王について語り、「あの方は望みのものをすべてお持ちです。――偉大さも冨も権力も。ご子息とお孫さんは王なり皇帝におなりだし、お嬢さまは女帝におなりです。栄光のなかにらっしゃる女王陛下に哀れな朝鮮のことをお思いくださいとお願いするのはむりでしょうね。女王陛下は世のためになることをいっぱいなさっています。立派な人生を送っていらっしゃいます。女王陛下のご長命とご繁栄をお祈りします」。……わたしがいとま乞いを告げると国王夫妻は立ち上がり、王妃とわたしは握手をかわした。夫妻からわたしは、またもどってきてもっと朝鮮を見てほしいとの思いやりあることばをたまわった。九ヶ月後わたしが朝鮮にもどったとき、王妃は惨殺されたあとで、また国王はみずからの宮殿に実質的な囚われの身となっていた。<イザベラ・バード『同上書』p.340-341>
 

三国干渉による日本の後退

 日清戦争で清が敗北すると、1895年4月17日に下関条約が締結され、清は宗主国としての失墜し、主導権を握ってた日本が甲午改革を後押しし、そのまま日本の朝鮮に対する権益が強まるかに思えた。しかしそうはならず、その状況を一気に転換させることになったのが、直後の1895年4月23日にロシアがフランス、ドイツを巻き込んで三国干渉を行い、日本がそれを受け入れざるを得なかったからであった。日本がロシアに押されて清に遼東半島を返還したことが、アジアにおける日本とロシアの力関係を、一気にロシア優位に転換させたのだった。
 三国干渉で日本が後退した後、閔妃にとっての敵対勢力は閔妃の廃位を公然と主張する大院君と、王権を制限する改革を進めようとする内閣だった。95年4月18日、大院君の孫の李埈鎔が東学と結んで国王の廃位を目論んだとして逮捕され、抗議した大院君は蟄居させられるという事件がおこった。これは日本公使井上馨の指示だったという。大院君の排除に成功した高宗と閔妃は、次に内閣の弱体化を狙い、首相金弘集と閣僚朴泳孝の対立を煽った。かつての甲申政変の首謀者として日本に亡命していた朴泳孝は井上馨の後援によって帰国し内務大臣に就任してたのであるが、閔妃は朴泳孝を抱き込んで金弘集を辞任させた。その朴泳孝がアメリカ士官によって訓練されていた親衛隊に代えて、日本士官が訓練する訓錬隊に王宮を警備させようとしたことに反対し、7月6日に朴泳孝を反逆罪の名目で逮捕令を出し、結局彼は二度目の日本亡命を余儀なくされるという事件が凝った。高宗はそれを受けて宮中の警護にあたる侍衛隊を設置したため、訓錬隊は解散されることになり、その隊士は不満を抱くことになった。<木村幹『同上書』p.236-240>

閔妃殺害事件 乙未事変

 高宗・閔妃の専制体制が強化されるとともに、ロシアの影響力が強まり、様々な手段で政権に食い込むようになった。そのような状況のもとで、井上馨に代わって公使となった三浦梧楼のもとで、日本は朝鮮における立場を回復する機会を狙った。1895年10月8日、三浦公使の指揮のもと、公使館員、軍人、在朝の壮士(浪士)と言われる民間人らは、朝鮮の訓錬隊の一部と協力して王宮に押し入り、国王・王妃を守る侍衛隊と戦って国王を確保しながら閔妃を殺害した。この閔妃暗殺事件は、乙未事変ともいわれ、外国の部隊が王宮に押し入り、王妃が殺害されるという屈辱的な事件となった。
 三浦公使は事件を朝鮮王朝内の内紛に装うため、またまた閔氏と対立している大院君を担ぎ出し、実行犯は朝鮮の訓錬隊であると装った。閔妃が殺害されたことで政権に復帰した大院君は10日、高宗の名において閔妃の廃妃とするとともに庶人(一般人)におとすことを発表させた。しかし生母である閔妃が庶人に落とされた子を嘆いた王太子が、自らもその地位を返上すると言い出したので、驚いた高宗は閔妃を庶人とすることは取り消し「嬪」(第二夫人)の称号を与えた。<木村幹『同上書』p.254-255>
 さらに大院君は政府から閔妃一派を排除して総理に金弘集など、親日派を復帰させた。クーデタは成功したかに見えたが当時王宮内で事件を目撃したアメリカ人やロシア人によって日本人の関与が証言され、国際問題化した。日本政府はやむなく外務省から小村寿太郎を派遣、現地調査をさせた上で、日本の関係を認め、三浦公使は日本に召喚され裁判にかけられることになった。

閔氏暗殺事件の裁判

 12月1日、閔妃の死が正式に発表され、王宮で葬式が行われた。それに伴って閔妃の死の理由をあきらかにしなければならなくなったので、政府は閔妃の死は訓錬隊と日本公使館守備隊が日本人壮士らとともに王宮を襲撃した謀反事件の結果であると公表し、その実行犯として訓錬隊の責任者など三名を逮捕し、29日に死刑判決を出した。日本人実行犯が裁かれなかったのは、不平等条約である日朝修好条規で日本に治外法権が認められていたためであった。
 三浦公使と日本人実行犯の裁判は、日本の広島で行われたが、王宮乱入の事実は認められ、彼らの独自に判断した凶行であるとされ、日本政府、外務省、軍の関与はなかったとされた。また朝鮮の裁判で朝鮮人の実行犯が確定したことを受け、閔氏殺害の直接的な犯行は証拠がないとして実行犯の特定はされなかった。<金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009 高文研 などを参照>

明成皇后の諡号

 宮中で孤立化を深めた高宗は翌年2月、突然ロシア公使館に遷り(露館播遷)、ロシア公使のもとで王権復興を謀った。そのなかで、閔妃の廃妃も取り消され、さらに1897年1月に閔妃に文成の謚号が贈られた。さらに同年3月2号に諡号は明成に改められ、それ以降は閔妃は明成皇后と呼ばれることになる。