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甲午農民戦争/東学の乱

1894年、東学(反キリスト教の民間信仰)の指導者が起こした農民反乱。朝鮮半島南西部を中心に広がり、それを口実に日清両軍が出兵し日清戦争となった。

 朝鮮王朝では、1880年代には封建体制を維持しながら開国・開化を進めるという矛盾は次第に深刻になっていた。外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、1894年2月、全羅道で郡役人の不正に反対し、東学の地方幹部であった全琫準が指導する反乱が起こった。農民軍は一万名以上に増え、反乱は農民戦争へと発展した。反乱は反日・反閔氏政権の様相を強め、全州府を占領した。閔氏政権は清に出兵を要求、清が出兵すると日本は天津条約に基づき出兵、朝鮮支配をめぐって両国は日清戦争となる。
 反乱軍は日本の出兵に反対して戦ったが、30~40万の犠牲を出して敗退し、鎮圧された。この歴史的出来事は日本では長く「東学党の乱」と言われていたが、東学は党としての組織をもっていたわけではないので、現在では党を付けないのが一般的である。また、「東学の乱」とも云われていたが、単なる農民反乱の域を超え、農民が主体となって侵略軍である日本軍と戦ったものなので、現在では甲午農民戦争と言われるようになている。<中塚明他『東学農民戦争と日本』2013 高文研>