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東学

朝鮮で生まれた儒仏道を総合した宗教で、キリスト教を西学というのに対して東学といった。1860年に崔済愚が創始し、外国貿易の影響で物価高などに苦しむ農民に浸透し斥倭洋(日本と西洋の勢力の排除)掲げ80年代に主として朝鮮南部の農民を組織化、急成長した。1894年2月に重税に反発して反乱を起こし政府軍との戦いを開始、甲午農民戦争と言われた。その鎮圧を口実に出兵した日本と清が衝突して日清戦争につながった。

 1860年に、朝鮮東南部、慶州の両班(世襲的な官僚層)出身で没落した崔済愚が創始した宗教。儒教・仏教・道教を融合させ、西学(天主教=カトリック教)に対抗する意味で東学と名付けられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符を飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。朝鮮王朝の大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年に崔済愚を逮捕し、死刑とした。
 1880年代には朝鮮王朝の封建体制を維持しながら開国・開化を進めるという矛盾は次第に深刻になっていった。外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、東学も再び活発となり、第二代教主の崔時亨のもとで組織化が進み、「斥倭洋」をかかげ、激しく日本と西洋諸国の排斥を求めるようになった。1894年2月、東学の地方幹部の一人、全琫準が農民の蜂起を指導し甲午農民戦争(東学の乱)を起こし、それが導火線となって日清戦争となった。

「東学」への誤解

 かつて日本では「東学党」と言われ、1894年の反乱も「東学党の乱」といわれていた。研究が進んだ現在では「党」といった近代的な政党とは全く違うので、「東学党」とはされず、単に「東学」と言っている。また「乱」という呼び方は、朝鮮王朝政府や地方役人から視て秩序を乱す集団の暴挙という見方、さらに大規模に出動した日本軍からみて、その鎮圧を正当化するための言い方であるので、現在では用いられていない。日清戦争の時の外務大臣であった陸奥宗光の『蹇蹇録』でも、冒頭で次のように言っている。当時の公式理解と言えるだろう。
(引用)朝鮮の東学党なる者に対しては内外国人、種々の解釈を下せり。あるいは儒教、道学を混合したる一種の宗教的団結なりといい、あるいは朝鮮国内における一派政治改革希望者の団体なりといい、あるいは単に好乱的凶徒の嘨集する者なりといえり。……<陸奥宗光/中塚明『新訂蹇蹇録』1983 岩波文庫 p.21>

甲午農民戦争の主体へ

 「東学党の乱」といった語句は今も用いられることがあるが、現在では、広範な農民による組織的な朝鮮政府・日本軍との戦いであったという認識から、「甲午農民戦争」と言われている。その名辞には、東学の戦いに、封建的な旧社会からの解放、外国の侵略からの民族の自立、といった意義を見出していることがこめられている。
 また「東学」を無知な農民を惑わした迷信的な教団という理解も、当時の朝鮮と日本の為政者の理解をそのまま鵜呑みにするもので正しくない。ただし、「東学」の説明を「西学(キリスト教)」に対抗する民間宗教とするのが一般的で、このサイトでもそれに従っている。それについては中塚明氏の次のような批判があることも踏まえておこう。
(引用)東学について、「水準の低い迷信的な信仰」という見方が長く続いてきた日本の思想状況でを考えれば、こういう「西学に対抗するものとしての東学」という解説では、「東学」を、単なる「西学」に対抗する「閉鎖的な思想・宗教」という考え方に導き、「低俗な迷信にさらに排外主義も加わった得体の知れないもの」という理解になりかねません。……<中塚明他『東学農民戦争と日本』2013 高文研 p.32>
 では「東学」をどう理解すべきか。中塚氏は崔済愚の思想を説明した後で、次のようにまとめている。
(引用)このように東学は、朝鮮王朝の末期、政治的・社会的に直面していたさまざまの困難な問題を民衆のレベルから改革し、迫り来る外国の圧迫から民族的な利益を守ろうとする、当時の朝鮮社会の歴史的なねがいを反映した思想でした。<中塚明他『同上書』p.37-38>
 その一方、東学は苦難から逃れようとする幻想的な宗教的側面をもっていたことも事実であるとし、幕末日本の百姓一揆、「ええじゃないか」の乱舞、あるいは黒住教や金光教などの民衆宗教が起こった日本の動きと同じである、と述べている。