ゾラ
フランスの作家で、1870年代に自然主義文学の旗手として活躍、1898年にはドレフュス事件で軍部を告発した。
マネの描いたゾラの肖像 1868
参考 マネの描いたゾラの肖像
1868年、日本で明治維新があった年、マネが、エミール=ゾラの肖像を描いている。背景に、日本の浮世絵が描かれており、フランス絵画に日本文化の与えた影響の見られる絵として知られている。マネはすでに『草上の昼食』1863を発表し、スキャンダラスな登場をしていた新進の画家であった。マネはまだ印象派とは言われていないが、やがて印象派の元祖とされるようになる。その印象派は美術史ではクールベなどの写実主義を乗り越える動きとされているが、その元祖とされるマネが、文学上の自然主義の元祖ゾラの肖像を描いてることはおもしろい。ドレフュス事件の弁護
エミール=ゾラの名を一気に高めたのがドレフュス事件(1894年~1906年)であった。事件が起きるとゾラは強い関心を抱き、1898年にドレフュスを弁護する『私は弾劾する』(余は弾劾す)という文を新聞「オーロール」に発表した。ユダヤ人に対する差別が根強い当時のフランスにおいて、敢然と言論のみで軍部に立ち向かうゾラは「時の人」として注目を浴びたが、軍部侮辱の罪で裁判にかけられ、有罪判決を受けることとなった。執行される前に、友人らの説得でパリを離れ、ロンドンに亡命し言論活動を続けた。しかし、1890年代は自然主義文学は退潮期を迎えていた。フランスではボードレール、イギリスではワイルドなどが現れ、芸術を現実に従属させるのではなく、本来の美の探求に向かうべきであるという耽美主義や象徴主義という新しい動きが高まっていたのだった。ゾラ自身も次第に文学的行き詰まりを感じていたところにドレフュス事件が起こり、文学者と言うよりヒューマニストとしてのゾラがそれに動かされたと言うことが出来る。
“私は弾劾する”
“私は弾劾する”の記事
ゾラの死 エミール=ゾラは1902年にパリで不慮の死をとげた。それは換気の悪い室内でストーブを燃やしていたため、一酸化炭素ガスにやられたのである。暖房という文明によってつくられた中毒という病気の悲劇であった。<立川昭二『病気の社会史ー文明に探る病因』1971 NHKブックス p.15>