反ユダヤ主義
19世紀後半にヨーロッパで高まったユダヤ人を蔑視する思想。フランスのドレフュス事件に端的に表れ、ナチスドイツによるホロコーストをもたらした。
1870年代~80年代に、ユダヤ人に対する排斥論がヨーロッパで高まった。それを反ユダヤ主義、またはアンチセミティズムともいう。anti-Semitism とは、ユダヤ人をセム語系民族と区分し、西欧人のアーリヤ人系民族に比べて劣等であるという根拠のない人種主義からきた言葉である。
ユダヤ人はローマ時代に離散(ディアスポラ)し、ヨーロッパにも移住してきたがキリスト教社会では、ユダヤ教の信仰を守るユダヤ人に対する迫害が発生していた。しかし最初から暴力的迫害があったわけではなく、おおよそは平穏に共存していたが、11世紀の末ごろ、十字軍時代に入ると、キリスト教徒の中に社会的不満をユダヤ教徒にぶつける動きが始まり、中世後期、ローマ教会の権威が動揺すると、教会による異教徒に対する迫害となって一団と強くなり、ユダヤ人への憎悪感が生まれた。この宗教的反ユダヤ感情は、次第に人種的な差別感にも転じ、黒死病(ペスト)の流行をユダヤ人の陰謀とするなど、社会の敵役とされるケースが多くなった。
フランスの反ユダヤ主義 19世紀後半のフランス(第三共和政)では、ユダヤ人共同体の人口はまだ少なく(アルジェリアを別にして)、カトリック教会と王党派、軍人の中に反ユダヤを主張するものもあり、一部新聞でその論陣を張るものもあったが、迫害や虐殺は起きていなかった。
ドレフュス事件 さらにレオン・ブルムは続ける。反ユダヤ主義者はユダヤ人に遺伝として刻印されているのは「裏切りの願望」だと見なし、ユダヤ人はキリストを裏切ったイスカリオテのユダの末裔だから辱められるのだ、とする。そこから、ドレフュスはユダヤ人だ、ユダヤ人だから裏切り者の性質を持っている、しかもドレフュスは普仏戦争でドイツに奪われたアルザス生まれだ、だからドイツのスパイとしてフランスを裏切ったのだ、という決めつけが造られた。しかもその筋書きをつくったのが参謀本部であったことから、愛国運動という見栄えのする装いをまとうことができ、大きな反ユダヤの世論となってドレフュスを有罪に追い込んだのだった。 → ドレフュス事件ワグナー は論文と音楽を通してアーリア人の優越を主張し、ユダヤ人を攻撃した。このような流れのなかで出現したのがナチスのユダヤ人迫害と絶滅計画の実行(ホロコースト)であった。
ユダヤ人はローマ時代に離散(ディアスポラ)し、ヨーロッパにも移住してきたがキリスト教社会では、ユダヤ教の信仰を守るユダヤ人に対する迫害が発生していた。しかし最初から暴力的迫害があったわけではなく、おおよそは平穏に共存していたが、11世紀の末ごろ、十字軍時代に入ると、キリスト教徒の中に社会的不満をユダヤ教徒にぶつける動きが始まり、中世後期、ローマ教会の権威が動揺すると、教会による異教徒に対する迫害となって一団と強くなり、ユダヤ人への憎悪感が生まれた。この宗教的反ユダヤ感情は、次第に人種的な差別感にも転じ、黒死病(ペスト)の流行をユダヤ人の陰謀とするなど、社会の敵役とされるケースが多くなった。
近代の反ユダヤ主義
フランス革命後はユダヤ人にも市民権が認めれるようになったが、ユダヤ人が経済的に成功すると、それに対する反発が貧困層から強くなり、差別意識はさらに強くなった。19世紀にはナショナリズムの勃興とともに、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアでそれぞれ国内の異民族としてユダヤ人を排斥する論調が強まった。その根拠として新たに生み出された観念が、反ユダヤ主義(アンチセミティズム)で、1879年に初めて用いられている。それは宗教的な反感ではなく、科学的な装いをもった人種主義(レイシズム)の姿を取り、政治的な側面も強くなっていった。フランスの反ユダヤ主義 19世紀後半のフランス(第三共和政)では、ユダヤ人共同体の人口はまだ少なく(アルジェリアを別にして)、カトリック教会と王党派、軍人の中に反ユダヤを主張するものもあり、一部新聞でその論陣を張るものもあったが、迫害や虐殺は起きていなかった。
(引用)それら(反ユダヤ主義)はパリ社会の、そのまたごく限られたサークル、社交のサロンや同業者組合などの中で生まれた。その直接の動機になっているのは、成り金のユダヤ人がずかずかと割り込んできたかと思うと、学問の世界にもユダヤ人が侵入してきた――――これはいかにも即断過ぎる――――という反発だった。だから、文字どおりの迫害という行動としてではなく、排除の形で発現した。反ユダヤ主義の理論家たちは、ある社会におけるユダヤ人の存在を、同化不能の――――したがって生物体が自然の防衛反応で抵抗することになる――――異物の進入として描いた。<レオン・ブルム/稲葉三千男訳『ドレフュス事件の思い出』1998 創風社 p.49>レオン=ブルム(ファシズムと戦い1936年に人民戦線内閣を組織したフランス首相、自らもユダヤ人だった)は、このように反ユダヤ主義は狭いサークルでの「排除」の理論からはじまったが、それはヒトラーの人種差別主義とまったく同じだ、と指摘し、「排除の行き着くところは迫害である。人種を区別しはじめると、人種間のヒエラルキー(優劣順位)という発想が出て来るのは理の当然である。したがってドレフュス事件を正確に理解するためには“ドレフュスはユダヤ人だ”、・・・“ユダヤ人にはいくつかの欠陥の刻印が、遺伝によって押されている!”などと当時言われていたことを思い出す必要がある、と言っている。<同p.50>
ドレフュス事件 さらにレオン・ブルムは続ける。反ユダヤ主義者はユダヤ人に遺伝として刻印されているのは「裏切りの願望」だと見なし、ユダヤ人はキリストを裏切ったイスカリオテのユダの末裔だから辱められるのだ、とする。そこから、ドレフュスはユダヤ人だ、ユダヤ人だから裏切り者の性質を持っている、しかもドレフュスは普仏戦争でドイツに奪われたアルザス生まれだ、だからドイツのスパイとしてフランスを裏切ったのだ、という決めつけが造られた。しかもその筋書きをつくったのが参謀本部であったことから、愛国運動という見栄えのする装いをまとうことができ、大きな反ユダヤの世論となってドレフュスを有罪に追い込んだのだった。 → ドレフュス事件
ポグロムとホロコースト
フランスで1894年に起こったドレフュス事件も軍部・右翼による反ユダヤ主義が背後に存在した。ロシアでは、アレクサンドル2世の暗殺(1881年)をユダヤ人の犯行ときめつけ、1万5千人のユダヤ人が殺された。それ以後、ポグロム(ロシア語で破壊という意味)という組織的なユダヤ人迫害が、20世紀の初めまで続いた。さらに作曲家シオニズム
このような反ユダヤ主義の横行に対して、ユダヤ人側から抵抗しようとしたヘルツルは、19世紀末にシオニズムの運動を組織し、その中から、ユダヤ人のパレスチナへの移住、第二次世界大戦後のイスラエルの建国が行われ、その結果として多数のアラブ難民が生まれるという、現代の最も深刻な対立の一つが始まることとなる。