ドレフュス事件
フランス第三共和政下で起こった反ユダヤ主義による冤罪事件。1894年、ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとして告発され、無罪を主張したが軍法会議で有罪とされ入獄した。参謀本部による証拠の偽造が疑われ、1898年、作家ゾラ、言論人クレマンソー等が再審を要求。他方、反ユダヤ主義者やカトリック教会、国家主義(ナショナリスト)は再審に反対し、国論が二分された。参謀本部があげた証拠の一部が偽書であることが判明するなど、ドレフュスに有利な状況となって、翌99年、再審となったが、結果は再び有罪となった。ドレフュスには特赦が与えられ、出獄したが、最終的に無罪が確定するのは1906年となった。第三共和政は危機を脱し、裁判支援を通じ自由主義、民主主義、社会主義者・知識人や発言が強まり、人権思想・政教分離の原則が確立に向かった。反ユダヤ思想は後退したが、保守的思想、ナショナリズム運動が組織される契機ともなった。
ドレフュス事件の意義
ドレフュス事件は、フランスの第三共和政の共和政治を脅かす事件であった。当時フランスは、1889年のブーランジェ事件での旧軍人によるクーデタの失敗、1892年のパナマ事件に見られる政治家とユダヤ系財閥の癒着から生じた疑獄事件などが続き、共和政治・議会政治に対する不信が強まり、一方で普仏戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。そのような中で一人のユダヤ系軍人がドイツのスパイであるとして告発され軍法会議で有罪となって入獄するという事件が起こった。そのドレフュスがユダヤ人であったことから、反ユダヤ主義を掲げる新聞がとりあげて大々的に報じられ、全フランスの注目を浴びることとなった。POINT このようにドレフュス事件はまず第一に、反ユダヤ主義の高まりで起こされた事件であったことがポイントである。徐々に裁判の内容がわかったことで、ユダヤ人が不確かな証拠だけで有罪にされ、自由と平等が踏みにじられたことに多くの人が疑義を挟み、再審によって人権の擁護・裁判の正義を取り戻そうとした事件という第二の要素があった。そのうえで再審が行われ、参謀本部の権威を守らなければならないという軍の立場から、再び有罪とされたが、同時に特赦となり、7年後となったが最終的に無罪となったことで、参謀本部と反ユダヤ主義者のもくろみは崩れ、第三共和制の人権・自由・平等という理念は守られたことが三つ目のポイントである。
ドレフュス事件の影響 参謀本部のめざしたドレフュス有罪を最終的に実現できなかったことで、陸軍はその後、対独危機を煽って軍国主義体制をつくることはできなくなり、カトリック教会などの保守勢力も反ユダヤ主義を鼓吹して勢力を維持することが困難となって、政教分離を認めざるを得なくなった。このような意味において、ドレフュス事件はフランス第三共和政を動揺させたが、結果として民主主義、議会主義、言論の自由などの近代市民社会の価値観をさら発展させたということもできる。その一方で、国論を二分した議論の中から、反知識人、反自由主義などの傾向をもつ保守主義の理論化・組織化も進み、後のナショナリズム運動(アクション・フランセーズなど)の発生ももたらした。
政教分離の実現 ドレフュス事件により軍部とカトリック教会を結びつける反ユダヤ主義が事件の原因としてあぶり出されることとなった。特に中世以来、フランスのカトリック教会が国家と結びつき、フランス革命で一時分離したものの、ナポレオンのコンコルダートによって復活して国家の保護のもと人権を抑圧していることに対する批判が強まった。そのためドレフュス事件の経過とともにクレマンソーらが結成した急進社会党が台頭し、社会主義政党であるフランス社会党と協力して、1905年に議会で政教分離法を成立させ、カトリック教会と国家を分離する原則が確立した。ドレフュスの無罪が確定した1906年の前年であった。
ユダヤ人問題
根強いカトリック教国であるフランスでは、ユダヤ人はキリストを裏切ったユダの子孫という単純な憎悪があった。他のヨーロッパ諸国と同じく、中世から近代に至るまで、ユダヤ人に対する差別意識である反ユダヤ主義が続いていた。フランス革命よって、自由・平等・博愛の理念からユダヤ人の人権も認められ、差別は否定されたが、民衆の中の差別感は根強く残っていた。普仏戦争後、ユダヤ人でフランスに移り住む人々も増え、第三共和政のもとでの産業発展には彼らの勤勉で高い能力が大きな力になっていた。特にユダヤ系の金融資本や産業資本が利益を蓄え、彼らは共和政を支持する勢力でもあった。しかし都市の下層民や農民はそのようなユダヤ人の成功に反発する心理も強くなっていた。ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、民衆の反ユダヤ感情がそのエネルギーであった。このようなフランスのみならずヨーロッパ全域での反ユダヤ感情の強さを、ドレフュス事件で身を以て感じたのがハンガリー出身でジャーナリストとして当時パリに滞在していたユダヤ人、ヘルツルであった。彼はこの事件でショックを受け、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざすシオニズム運動を開始する。それはまた現在のパレスチナ問題の出発点でもあった。事件の経緯
1895年1月5日 軍刀をへし折られるドレフュス(左側に立つ人物)
有罪 大尉は否定したが、事件をスクープした反ユダヤ系の新聞が「ユダヤ人の売国奴、逮捕される!」と報道した。ユダヤ人の軍人がドイツのスパイだった、という報道に大きな反響が起こった。12月、軍法会議が行われ、ドレフュスは強く無罪を主張したが、発見されたメモはドレフュスが書いたという筆跡鑑定の結果、有罪とされた。ドレフュスの軍籍は剥奪されることとなり、翌95年年1月5日、練兵場で徽章ははぎ取られ、軍刀はへし折られた(このときの絵が上に上げた当時の新聞に報道されたもの)。見守る群衆はドレフュスに「ユダヤ人!売国奴!殺せ独探!」と罵声を浴びせた。ドレフュスは終身刑として南アメリカのフランス領ギアナ沖合にある「悪魔島」に送られた。
再調査 これで一件落着と思われたが、新たに参謀本部情報部長となったピカール中佐は別なルートから、エステラージーという少佐がドイツ大使館の諜報員と連絡を取っていることを嗅ぎ出した。ピカールは密かに再調査を進め、その筆跡を入手して以前の鑑定人に見せたところ、メモと同一だと答えた。ドレフュスの無実を確信したピカールはその結果を上層部にあげたが、陸軍大臣以下の軍首脳は軍事機密であるとして公開を拒否し、軍法会議の権威を守ることを優先した。
世論 一方、ドレフュスの妻のリュシーと兄マチューはドレフュスの無罪を信じて奔走し、弁護士や政治家に訴えた。新聞の中でも「オーロール」が取り上げた。ピカール中佐は良心がいたたまれず、真相をドレフュスの弁護士に明かす。驚いた弁護士が再審を請求し、エステラージーも尋問されることとなったが、すでに国外に逃亡していた。反ドレフュス派の新聞は彼がユダヤ人であること、参謀本部が嘘をつくはずがないことなどの論陣を張り、ドレフュス支持派は再審を主張、世論は二分されることとなった。反ドレフュス派は反ユダヤ思想をもつカトリックと軍を支持するナショナリストが結集し、ドレフュス派は公正な裁判をもとめる知識人と、共和主義者、社会主義者などが多かった。
余は弾劾す 共和主義と自由主義として知られるクレマンソーが主催する新聞「オーロール」紙が、1898年1月13日に作家エミール=ゾラの署名でフォール大統領宛の公開書簡の形で「余は弾劾す(J'accuse!)」と題する記事を掲載した。それはドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げたこと、上層部がそれを謀議したこと、軍法会議も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したものであった。右派や反ユダヤ系新聞は激しく反論し、ゾラは軍に対する誹謗中傷の罪で告発されてしまった。その裁判はドレフュスの無罪を明らかにする機会でもあったが、結果は反ユダヤと陸軍擁護の世論が根強く、かえってゾラは有罪とされてしまった。ゾラは言論活動ができなくなることを避けて、ロンドンに亡命した。ドレフュス無罪を証言したピカール中佐も参謀本部を追われた。こうしてドレフュス事件は再び葬られた。
証拠偽造 しかしゾラ裁判の後、ドレフュス有罪の決め手の一つとなっていた、ドレフュスをスパイの一人としてドイツ陸軍の諜報部に送られたという文書が、参謀本部のアンリ中佐が偽造したものだったことが軍の調査で明らかになった。ところが1989年8月31日、アンリ中佐が自殺してしまい、軍に対する疑惑が一気に高まった。再審の声が強まり、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエステラージーのものであることが明らかになった。
再審 追い込まれた軍はやむなく軍法会議の再審を認め、1899年8月にレンヌでの再審が開かれた。ドレフュスは5年にわたる悪魔島の禁固を解かれ、再審のためにフランスに戻っり、やつれた姿を現した。ドレフュスを有罪とする証拠はすべて否定されたので、無罪がだされるものと予想されたが、しかし軍は94年当時の参謀本部の責任者メルシエ将軍が出廷し、上層部の謀議を全面的に否定した。裁判の焦点はドレフュス自身よりも、陸軍参謀本部の謀議があったかどうか、に係ってきた。反ドレフュスの陸軍擁護派はたとえ証拠の偽造があったとしても、それはユダヤ人や急進派にフランスを委ねることはできないという愛国心からでったことであるから許される、という論調となった。議論は感情的になり、判決の日はドレフュスの弁護士ラボリが暴漢に銃撃され大けがするという事件も起きる。
判決と特赦 1899年9月9日、軍法会議の再審の判決は、5対2で有罪となり、情状酌量で向きから禁固10年に減刑という苦しい判決であった。ドレフュスは再び絶望の淵に沈み、収監された。しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、再審請求を取り下げること(つまり有罪を認めること)を条件に、大統領特赦を出し、ドレフュスを解放するということを申し出てきた。クレマンソーなどは特赦に強く反対し、ドレフュス自身も悩んだが、結局9月19日、人道的立場から特赦を受け入れることに也、出獄した。彼はなおも自分が潔白であることを訴えると声明したが、世間はもはやドレフュス個人への関心は薄れ、「国家における軍部の地位の問題と書き替えられ、政教分離の問題となって、近代の政治の重要な宿題となった。問題がここまで広がってくるとドレフュスの名は、海にそそいでから川が見えなくなるように、人の注意から消えたのである。」<大佛次郎>
最終解決 ようやく1906年になって軍法会議の再審判決での有罪が取り消され、ドレフュスは無罪となり、名誉を回復した。軍籍に戻ったドレフュスは少佐に昇進して軍務につき、09年6月に引退した。第一次世界大戦が起きると砲兵中佐としてヴェルダン戦に参加したという。<以上、大佛次郎『ドレフュス事件』1930 現在は大佛次郎ノンフィクション全集7に収録(朝日新聞社刊)などによる。> → 政教分離法(ライシテ)
参考 ドレフュス事件をめぐって
ドレフュスという人物 アルフレッド=ドレフュス Alfred Drefus 1859-1935 はアルザス出身のユダヤ人。一家は1871年の普仏戦争でアルザスがドイツ領となったとき、フランス国籍を選びパリに移住した。1881年にエコール・ポリテクンック(理工科学校)を卒業して軍人となり、89年に砲兵大尉に任官、93年に陸軍大学を卒業して成績優秀であったので参謀本部に採用された。しかしユダヤ人であったため、昇進は順調ではなかった。94年、35歳の時にスパイ容疑で逮捕され、軍法会議で無期監禁を言い渡されて南米ギアナ沖の悪魔島と言われる監獄に送られた。1899年に特赦によって出獄したが、最終的に無罪を認められたのは7年後の1906年だった。それだけの裁判闘争を続けたので際立った意志の強さを持っていたことは確かだろうが、しかし見かけは平凡で寡黙な軍人だったようだ。そして生涯、自分がフランスの軍人であるという自負を捨てなかった。レオン=ブルムの『ドレフュス事件の思い出』では、彼は自らの経験を子どもたちにも語らなかったという。(引用)イストワール(歴史、思い出)? 当時のドレフュス大尉には、自分のイストワールなんか語れはしなかった。彼はそれを理解していなかった。彼はそれを知らなかった。あれ(名誉回復)から30年ほごたって、彼は自分が望んだ隠遁生活のあげく、つい先日(1935年7月11日)死んだ。彼の名は世界中に溢れたけれども、もしかしたらそのことさえ彼は忘却していたのかもしれない。誠実な精神をもった謙虚な人柄で、寡黙で不屈の勇気を別にしたら、英雄めいたところはつゆほどもなかった。どこまでも純朴で、権威や虚飾や雄弁などもちあわせていなかったから、判事たちを前にしても「無実の叫び」を彼は発せられなかった。・・・もしも彼がドレフュスでなかったとしたら、はたして彼は《ドレフュス派》になっていたであろうか。<レオン・ブルム/稲葉三千男訳『ドレフュス事件の思い出』1998 創風社 p.49>ユダヤ人はどう受け止めたか 軍法会議でドレフュスを有罪とした陸軍参謀本部は、当初はこの事件を軍内部だけで処理しようとしたが、事件を知った反ユダヤ主義の急先鋒の日刊紙リーブル・パロール紙が「大逆罪!、ユダヤ人将校の逮捕!ドレフュス大尉!」といいう大見出しで報じたことで一気に世に知られることになった。やがてドレフュスが自白したという情報が流され、事件はユダヤ人によるスパイ事件として定着しドレフュスは真犯人とされてしまった。実際に自白してはいなかったが、くすぶっていた反ユダヤ感情が、ドイツに対する復讐心というフランス人のナショナリズムと結びつき、ドレフュスは「国賊」としてやり玉にあげられたのだった。ユダヤ人はそれをどう受け止めたのだろうか。自らもユダヤ人として、青年時代に事件と向き合ったレオン=ブルムの思い出から見てみよう。
(引用)再審請求のキャンペーンがはじまったとき、大多数のユダヤ人は、疑い深い目で慎重に見守ろうとした。彼らのあいだを支配していた感情は、「この動き(再審請求)にはどうも、ユダヤ人はかかわるべきでないぞ」といった形で表現できよう。この複雑な感情を分析すると、いろいろの要素がいろいろな比重でふくまれている。すなわち、愛国心――――それも外国の動きに敏感すぎる反応をする愛国心――――もあれば、軍隊への敬意、とりわけその幹部らへの信頼もあり、不公正で正道を踏みにじっているとみなした人たちへの嫌悪もあった。ただし同時に、一種の利己的で臆病な…………もっと厳しい用語で呼ぶこともできる…………慎重さもあった。ユダヤ人にしてみれば、自分たちがドレフュスを擁護しているとは思われたくなかった。なぜなら、ドレフュスがユダヤ人だったからである。彼らは自分たちの態度が、民族の違いや、民族としての連帯に由来すると解釈されたくなかった。とりわけ彼らは、別のあるユダヤ人を擁護しようとすることで、そのころ誰の目にも明らかな激しさで猛威を振るいはじめていた反ユダヤ主義感情の火に、油を注ぎたくなかった。(中略)富裕なユダヤ人も、中流ブルジョアのユダヤ人も、官僚になったユダヤ人も、ドレフュスのための闘争への参加をびびった。・・・<レオン・ブルム『同上書』.19-20>ドレフュス派の人びと ドレフュスを擁護し、再審運を始めたのは、兄のマチューと妻のリュシーであり、その訴えを受け止めた弁護士たちだった。そして当の参謀本部のなかに、ドレフュスの書いたというメモの筆跡に疑いを向け、真犯人が別にいることに気づいたピカール大佐が、戸惑いを感じながら軍の名誉を守ることよりも、真実を明らかにする行動に踏み切ったことが、再審への道を開いた。共和派の政治家であったが落選中でジャーナリストとして新聞「オーロール」紙を発行していたクレマンソーも、不確かな証拠で無実の人間が有罪にされたのではないか、という疑問から事件に向き合い、ドレフュスの無罪を確信し、そして当時すでに人気作家であったエミール=ゾラの「余は弾劾す」の記事を掲載したことが、ドレフュスを擁護する勢力を形成した。ゾラが呼びかけた再審を求める署名には文学者のアナトール=フランス(『神々は渇く』など)をはじめ、若い頃のマルセル=プルースト(後の彼の主著『失われた時を求めて』は、事件の思い出を下敷きにしている)などがいた。他にも当時の芸術家や学者、教育者など、いわゆる文化人とか知識人と言われている人びとが多く含まれていた。また社会主義者で政治家のジャン=ジョレスは再審が始まってから議会でドレフュス擁護の論陣の先頭に立った。後に『ドレフュス事件の思い出』を書くことになる若きレオン=ブルムもいた。彼ら、ドレフュス派は一つの党派とは言えない複雑な要素をもっていた。<アラン=パジェス『ドレフュス事件 真実と伝説』2021 法政大学出版会 などを参照>
反ドレフュス派 これらのドレフュス擁護派は必ずしもユダヤ人であったり、ユダヤ人を支持する人々ではなかったが、その活発な言論活動が始まると、ドレフュス有罪の論陣を張っていた新聞リーブル・パロール紙の主筆エドワール=ドリュモンや、ナショナリストの文学者モーリス=バレスが激しく反撃した。かれらの論理は有罪か無罪化ではなく、ドレフュス擁護派の知識人や作家はユダヤ人と裏でつながっている「ユダヤ組合」であり、ユダヤ人の国家乗っ取りの陰謀が潜んでいるのだ、フランスを守るためにはドレフュスは有罪でなければならない、という「陰謀論」であったが、共和派の政治家に対する不信や、知識人に対する反発を感じていた大衆に一定の支持をうけた。<アラン=パジェス『同上書』p.149,154>
真実と伝説 1898年、ゾラの裁判があったころは、新しい情報ツールとして急成長した日刊新聞が世論を動かすようになっており(ネットではなく)、フランスの国論はドレフュス派か反ドレシュス派かの二つに分かれて、争う状態となった。その中で、「ユダヤ人はイエスを裏切った。ドレフュスはユダヤ人だ。だからフランスを裏切ったに違いない。」という乱暴な三段論法から派生したさまざまな「伝説」がまことしやかに語られ、「真実」は正義派ぶった知識人のたわごととされていった。1899年に行われた軍事法廷再審は、ドレフュスを有罪とする証拠は参謀本部がでっちあげたものであることが明らかになったにもかかわらず、再び有罪となった。右派新聞の論調には「愛国的偽書」として参謀本部を擁護する論調さえあった。5対2の裁決だったが、有罪とした判事役の軍人は、参謀本部の権威を守ることが愛国者の勤めだという義務感からの判断だったとしか考えられない。<ピエール=ミケル『ドレーフュス事件』p.87>
右派ナショナリズムの台頭 再審でドレシュスは有罪となったが、政府の中には無実であるドレフュスを自由にしなければならないという思いもあった。この矛盾は大統領が特赦を与えることで解決された。特赦を与えることに軍は当然反対だったが、陸軍大臣がその声を抑えた。一方ドレフュス派の中には深刻な対立が生じた。クレマンソーやジャン=ジョレスは特赦を受け入れることは罪を認めることになるから強く反対した。しかし、長い孤島での独房生活で心身共に痛めつけられたドレフュスを救うためには特赦を受け入れるのもやむを得ない、という兄や妻の要求が通った。特赦によって世論は「一見落着」感が生まれ、大衆はドレフュスを忘れていった。そして文字どおり、人びとが忘れた頃、1906年に軍事法廷の有罪はなかったことにされ、ドレフュスは名誉を回復した。ドレフュス事件は人びとの記憶から次第に消えていったが、反ドレフュス派のかかげる反ユダヤ、反共和政、反知識人の思想はより鮮明になっていった。参謀本部の軍人でドレフュス=スパイの証拠文書を偽造したことが明るみに出たため自殺したアンリ中佐を「愛国者」として称揚し、残された夫人を守るための署名運動を提唱したシャルル=モレスは、その後、フランス王政の復活を主張して1905年に「アクション=フランセーズ」を結成する。これはフランスの国粋主義主義政治団体として活動を続け、ファシズム台頭期にはムッソリーニ・ヒトラーに近づき、ヴィシー政府に協力し、戦後は解散させられたが、その影響力は現在のフランス右翼の活動に継承されている。
ドレフュス事件と現代 ドレフュスの無罪が確定したことで人権・自由・平等というフランス革命以来の理念は守られた。それは大きな意味をもっており、19世紀後半のブーランジェ事件とパナマ運河に続く第三共和政の危機は、フランスからナショナリズムを中心理念とした全体主義、軍国主義が生まれる可能性があったことを示しているが、ドレフュス事件はその危機を乗り切ったことを意味していた。
しかし、ドレフュスの個人としての名誉が守られたと同時に、真犯人は公式には確定されないまま(当然ドイツ陸軍も関与を否定したまま)、フランス陸軍の疑惑も否定された。陸軍への信頼が大きく動揺したことは否めないが、少なくとも陸軍大臣、参謀総長はその責任を問われることなく、威厳を保つことができた。そしてゾラが告発した1898年には一方でイギリスとの植民地紛争であるファショダ事件があり、清から広州湾を租借し、帝国主義の列強間抗争に加わっている。そしてドレフュスの無罪が確定した1906年の前年には第1次モロッコ事件でヴィルヘルム2世の挑戦を受けている。このようにドレフュス事件の時期は、フランスが帝国主義列強の一つとして世界情勢に関わっていた時期であったことも押さえておこう。そして、21世紀も四半世紀を過ぎようとしている現在、なにかけじめのない陰謀論が横行し、世界的な民主主義の危機が取り沙汰されることを考える上で、ドレフュス事件をふりかえっておくこに意味がありそうに思われる。<2025/1/3>