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戦艦ポチョムキンの反乱

1905年、第一次ロシア革命の最中に、ロシアの黒海艦隊で起こった水兵の反乱。

 1905年、血の日曜日事件で民衆を弾圧し、日露戦争を継続するツァーリ政府に対する不満は兵士の間にも広まった。5月には日本海海戦でバルチック艦隊が全滅し、大きなショックとなった。そのような中で6月、ロシア海軍の黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組員が反乱を起こして艦を乗っ取るという事件が起こった。ポチョムキン号はオデッサ港に入港、オデッサで反乱軍を迎えた市民大衆がコサック兵に虐殺されるという事件も起こった。上陸ができなかったポチョムキン号は1週間に渡り黒海上をさまよった上で、ルーマニアのコンスタンツェ港に入って武装解除され、大部分は亡命した。反乱は社会主義者の水兵に指導されていたが、黒海艦隊全体に反乱を拡大することはできず、オデッサの革命運動も鎮圧されたため、失敗に終わり、反乱の中心人物は後に捕らえられて処刑された。しかし、この反乱によって日露戦争を継続することはできなくなり、また政府は国会の開設などの一定の譲歩に追い込まれていった。 → 第1次ロシア革命

Episode 「ウジ虫」騒動から始まった反乱

 反乱の発端は、ボルシチに入れる肉が腐ってウジ虫がわいているのを水兵が発見して訴えたところ、軍医が「たかがウジ虫じゃないか。海水で洗えばいい。肉は上等だ!!」といって取り合わず、それでもボルシチに手をつけようとしなかった水兵を士官が命令違反で銃殺しようとしたことから起こった。しかし突発的な出来事ではなく、艦内には社会主義者のマチュシェンコやワクレンチュクなど何人かの扇動者がいた。彼らは密かに血の日曜日の残虐行為、無意味な日露戦争での敗北などツァーリの専制政治に対する不満を訴え、蜂起の機会を狙っていたのだった。黒海艦隊の他の艦船とともに一斉に決起する計画であったらしいが、ポチョムキン号だけが先行することとなってしまった。
 1905年6月27日、クリミア半島西部の海上で蜂起した水兵は、艦長以下の士官を殺害し、艦を占領して人民委員会の管理下に置いた。その日の深夜、黒海北西岸の最大の商業港オデッサに入港、ツァーリに宣戦することにした。このオデッサではその前日、港湾のストライキが起こり、現地司令官が戒厳令を出すという緊迫した情況だった。ポチョムキンの革命兵士は艦上で殺されたワクレンチェクの棺を港に安置すると、翌日それを聞きつけたオデッサ市民が続々集まり、その死を悼む集会を開いた。それにたいして現地司令官はコサック兵を派遣して無差別に発砲し、多数の死傷者が出た(オデッサ階段の虐殺)。
 オデッサの革命を指導していた学生フェルトマンはポチョムキンに乗り込み、そこから司令部に対する砲撃を要請した。ポチョムキンの砲兵が二発の砲弾を放ったが、正確な距離がわからなかったので的をはずれ、効果はなかった(エイゼンシュテインの映画ではポチョムキンの砲弾が司令部を粉砕したとして描かれている)。水兵も艦内にまだ反革命勢力も残っていたので上陸することもできず、結局オデッサの革命は鎮圧され、フェルトマンはそのままポチョムキン艦内に残ることとなる。

黒海艦隊の解体

 ロシア艦隊にはバルト海を本拠としたバルチック艦隊、旅順の極東艦隊、それにセヴァストーポリを拠点としたこの黒海艦隊があったが、そのうちバルチック艦隊と極東艦隊はすでに日露戦争の日本海海戦で日本海軍に敗れ壊滅していた。黒海艦隊は、1878年のベルリン条約でボスフォラス海峡はオスマン帝国の艦船以外は航行禁止なので、黒海の外に出ることはできずにいた。戦艦ポチョムキンは、1900年に建造された黒海艦隊のなかで最も強力な重装甲艦で、エカチェリーナ2世の寵愛を受けた首相グレゴリー=アレクサンドロヴィッチ=ポチョムキン公爵の名にちなんだ戦艦であった。ポチョムキンの反乱が起きたとき、母港セヴァストーポリの他の艦船は、ただちに鎮圧に向かったが、その中の一隻の「ゲオルギー征服王号」でも水兵反乱が起き、オデッサ沖の海戦は不首尾に終わり、ポチョムキンを捕捉することができなかった。結局、黒海艦隊は実質的に解体されたこととなったが、ポチョムキン号の行く末も展望はなかった。

反乱の終結

 ポチョムキン号はワクレンチェクの葬儀を行おうとして上陸したが、それもコサック兵に妨害され、結局乗組員のオデッサ上陸はできなかった。石炭、食糧などの補給をしなければならず、黒海をさまようこととなり、一時はクリミア半島のフェオドーシアに入港したが、交渉に失敗してしまう。その間不眠不休で水兵を鼓舞してきた革命派のマチュシェンコやフェルトマンも、声も出ない状態となり、水兵のの多数決で、7月8日にルーマニアのコンスタンツァ港に入港し、亡命する道を選んだ。ルーマニアでは彼らは自由はなかったが平穏な暮らしをすることができた。しかし1907年、ロシアで大赦令が出されると聞いたマチュシェンコらは、祖国に戻ろうとして国境で捕らえられ、処刑されてしまった。<以上、リチャード=ハフ/由良君美訳『戦艦ポチョムキンの反乱』2003 講談社学術文庫(初版1960)による>

映画『戦艦ポチョムキン』

 この事件を題材にしたエイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(1925)は、無声映画であるが、モンタージュ手法を駆使した映画史上の傑作といわれている。特にオデッサの階段のシーンはライオンの像と階段を駆け下りる群衆、整列して降りてくるコサック兵、母親が撃たれたため疾走してしまう乳母車などをカットバックという手法で緊迫感を盛り上げており、後の映画に大きな影響を与えた。ただし、映画(アメリカ上映版)は、ソヴィエト政権成立後にロシア革命の成功を賛美するためにつくられたので、余分なことは大胆にカットされており、反乱のすべてを描いているわけではない。

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書籍案内

ハフ/由良君美訳
『戦艦ポチョムキンの反乱』
2003 講談社学術文庫
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エイゼンシュテイン
『戦艦ポチョムキン』
1925 制作