ガポン
1905年1月、第一次ロシア革命の発端となった「血の日曜日」事件で、労働者の請願行進を指導した司祭。
ガポンは、ギリシア正教の司祭であったが、ペテルブルクの労働者の中で活動するうちに、労働者の権利の擁護のために、合法的な労働組合運動とすることが必要であると考え、内務省や警察と接触してその承認を得て、穏健な労働運動を進めようとした。しかし労働者の置かれた状態は日露戦争でさらに悪化していった。そこでガポンは、ツァーリの恩寵にすがり、労働者の権利と平和を実現を掲げて請願行進をすることを計画し、市当局にもその了解を取って、1月22日(ロシア暦9日)に実行した。それに対してツァーリ政府は、運動が暴力的な革命運動に転化することを恐れ、軍隊を動かして警戒した。ついに請願行進の労働者に対して軍隊が発砲し、多数の犠牲者が出るという血の日曜日事件となった。ガポンはその先頭に立ち、銃弾を受けて倒れたが命は取り留め、事件後に作家のゴーリキーに匿われて逮捕を免れ、亡命した。
「血の日曜日」事件は労働者・民衆のツァーリに対する幻想を打ち砕き、各地での暴動の引き金となった。10月にはツァーリ政府の一定の妥協である十月宣言を引き出して国会(ドゥーマ)の開設、憲法の制定に至る第1次ロシア革命のきっかけとなった。
事件前後のガポンはペテルブルクの労働者の中で絶大な信頼と支持があった。しかし事件後の翌年、亡命から戻ってくると、ガポン自身が請願行動を無謀だったと反省し、革命運動とは一線を画して再び治安警察と接触した。それをガポンの裏切りと見た社会革命党員によって暗殺された。その結果、1930年代のソ連共産党の公式の歴史書ではガポンは治安警察と結んだ挑発者であると断定され、その評価が固まり、日本でもそのように言われるようになった。しかし、1957年のスターリン批判後、ロシア革命の歴史が再検討される中で、「血の日曜日」は労働者が挑発に乗った偶発的な出来事だったのではなく、労働者の中で自覚的に高まった社会変革に向けての革命行動と評価されるようになり、さらにそれを指導したガポンの評価も見直されるようになった。
和田春樹氏は一方的な挑発説やスパイ説は現在では退けられているとして、「血の日曜日」事件を「民衆の巨大な成長の産物」であり、ツァーリのもとに《プラウダ》を求めて決死の覚悟をもって請願することはロシアの民衆思想「帰りくる救い主ツァーリ」のうちにある伝統的観念で導いたのがガポンであったとしている。それではガポンの起草した請願書とその請願内容を見てみよう。
・政治犯、争議、農民騒動の咎で捕らえられている人々の釈放。・個人の自由と人身の不可侵、言論・出版の自由、集会・宗教的良心の自由の即時宣言。・国費による義務教育。・法の前での平等。・国家と教会の分離。・間接税を廃止し直接累進課税とすること。・国民の意思による戦争の中止。・労働組合の自由。・八時間労働制。・労働の資本に対する闘争の自由(ストライキ権)。・標準労働賃金。・労働者国家保険法案作成への労働者代表の参加。
などなど、現在から見ればあまりにも当然なことばかりであった。
事件後亡命したガポンはジュネーヴでレーニンらと接触、レーニンは1月9日の行動を「ロシアにおける革命の始まり」として高く評価したが、ガポン自身はボリシェヴィキの暴力革命路線に反対し、社会革命党(エスエル)に近い立場を取った。ロシアでウィッテが登場し、10月宣言で一定の改革が打ち出されると、ガポンは期待をしてロシアに戻り、かつての権力によって保証された労働組合運動を再建しようとした。ウィッテもそれを容認し、密かに資金を提供するなど関係を持ったが、そのようなガポンの動きは革命派に裏切りと写り、1906年3月28日エスエルの会議にガポンを召還し、首に縄を付けて宙づりにして殺した。<和田春樹・和田あき子『血の日曜日』1970 中公新書 p.203-209>
「血の日曜日」事件は労働者・民衆のツァーリに対する幻想を打ち砕き、各地での暴動の引き金となった。10月にはツァーリ政府の一定の妥協である十月宣言を引き出して国会(ドゥーマ)の開設、憲法の制定に至る第1次ロシア革命のきっかけとなった。
ガポンの評価
民衆・労働者には、ツァーリに対して『プラウダ』(正義)を求めて請願し、それが受け入れられない場合は死しかない、という「自由か死か」という思い詰めた思想があった。民衆にその思想を与えたのがガポンであった。しかしガポンはその後、その評価を巡って様々な疑惑が指摘され、毀誉褒貶があった。事件前後のガポンはペテルブルクの労働者の中で絶大な信頼と支持があった。しかし事件後の翌年、亡命から戻ってくると、ガポン自身が請願行動を無謀だったと反省し、革命運動とは一線を画して再び治安警察と接触した。それをガポンの裏切りと見た社会革命党員によって暗殺された。その結果、1930年代のソ連共産党の公式の歴史書ではガポンは治安警察と結んだ挑発者であると断定され、その評価が固まり、日本でもそのように言われるようになった。しかし、1957年のスターリン批判後、ロシア革命の歴史が再検討される中で、「血の日曜日」は労働者が挑発に乗った偶発的な出来事だったのではなく、労働者の中で自覚的に高まった社会変革に向けての革命行動と評価されるようになり、さらにそれを指導したガポンの評価も見直されるようになった。
和田春樹氏は一方的な挑発説やスパイ説は現在では退けられているとして、「血の日曜日」事件を「民衆の巨大な成長の産物」であり、ツァーリのもとに《プラウダ》を求めて決死の覚悟をもって請願することはロシアの民衆思想「帰りくる救い主ツァーリ」のうちにある伝統的観念で導いたのがガポンであったとしている。それではガポンの起草した請願書とその請願内容を見てみよう。
ガポンの請願書
(引用)陛下! 私たち、ペテルブルク市の労働者および種々の身分に属する住民は、私たちの妻や子、よるべなき年老いた親たちともども、プラウダ(正義)と助けを求めて、陛下の御許へやって参りました。私たちは貧しく、圧迫され、無理な労働に苦しめられ、辱められ、人間として認められず、つらい運命をじっと黙って堪え忍ぶ奴隷のような取り扱いをうけています。私たちは堪え忍んできました。しかし、私たちは、ますます、貧乏、無権利状態、無教育のどん底におしやられるばかりで、専制政治と横暴にのどもとをしめつけられ、窒息しそうです。陛下、もう力がつきました。辛抱できるぎりぎりのところまできました。堪え難い苦しみがこれ以上つづくくらいなら死んだ方がましという恐ろしいときが私たちにはきてしまいました。・・・・その後に列挙された具体的な請願項目の主なものは、
ここに私たちは最後の救いを求めております。あなたの民に助けの手をさしのべるのを拒まないでください。無権利、貧困、無教育の墓場からあなたの民を導き出してください。自分の運命は自分で決める可能性をあなたの民に与えてください。官吏の堪え難い圧迫を解いてください。あなたとあなたの人民の間にある壁を打ちこわしてください。そして、人民があなたとともに国を治めるようにしてください。あなたは、人民に幸福をもたらすためにつかわされたのでしょう。だのに、この幸福を官吏たちが私たちの手からもぎ取り、それは私たちには届きません。・・・・
国民代表制が必要です。人民自身が自らを助け、自らを統治することが必要です。なぜなら、人民がほんとうに必要としているものは、人民だけが知っているのですから。人民の助けを突き放さず、それを受けて下さい。ただちに、いまロシアの地の代表を、すべての階級、すべての身分から、そして労働者から召集するよう命令して下さい。そこには資本家も、労働者も、官吏も、司祭も、医師も、教師も来させたらよいのです。どんな人間であろうとすべての人に自分の代表をえらばせましょう。誰も選挙権が平等で自由であるようにいたしましょう――そしてそのために、憲法制定会議選挙は普通・秘密・平等投票という条件のもとでおこなわれるよう命じてください。このことが、私たちのもっとも重要なお願いです。・・・・<和田春樹・和田あき子『血の日曜日』1970 中公新書 p.91-98>
・政治犯、争議、農民騒動の咎で捕らえられている人々の釈放。・個人の自由と人身の不可侵、言論・出版の自由、集会・宗教的良心の自由の即時宣言。・国費による義務教育。・法の前での平等。・国家と教会の分離。・間接税を廃止し直接累進課税とすること。・国民の意思による戦争の中止。・労働組合の自由。・八時間労働制。・労働の資本に対する闘争の自由(ストライキ権)。・標準労働賃金。・労働者国家保険法案作成への労働者代表の参加。
などなど、現在から見ればあまりにも当然なことばかりであった。
ガポンの疑惑
ガポンが疑惑の目で見られたのは、彼自身がかつて警察内部で労働運動に介入・統制をはかっていたズバートフや、特別市長官フロンらと密接に関わっていたからであった。ズバートフは警察官であったが、社会主義による革命運動を防止するためには労働組合の内部からコントロールする必要があるとして、自らの息のかかったものを労働者の中に紛れ込ませて組合を結成させていた。そのような組合はいわば官製の労働運動であり、ズバートフ組合といわれており、ガポンも当初はその運動に加わっていた。しかし、資本と労働者の対立はズバートフの官製労働組合によるコントロールという思惑を超えて厳しくなり、ズバートフの息のかかった労働組合ですらストライキを行うようになり、資本家から嫌われたズバートフは失脚した。ガポンはその後、ズバートフ組合の影響を脱して、独自のロシアの伝統をふまえた労働者の組織作りを目指すようになり、ペテルスブルクで結成した「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」(ガポン組合といわれた)を組織したが、そこではズバートフ派を排除しており、ガポンを警察のスパイと見るのは誤っている。事件後亡命したガポンはジュネーヴでレーニンらと接触、レーニンは1月9日の行動を「ロシアにおける革命の始まり」として高く評価したが、ガポン自身はボリシェヴィキの暴力革命路線に反対し、社会革命党(エスエル)に近い立場を取った。ロシアでウィッテが登場し、10月宣言で一定の改革が打ち出されると、ガポンは期待をしてロシアに戻り、かつての権力によって保証された労働組合運動を再建しようとした。ウィッテもそれを容認し、密かに資金を提供するなど関係を持ったが、そのようなガポンの動きは革命派に裏切りと写り、1906年3月28日エスエルの会議にガポンを召還し、首に縄を付けて宙づりにして殺した。<和田春樹・和田あき子『血の日曜日』1970 中公新書 p.203-209>