黒海
バルカン半島、ロシア、小アジアに囲まれた海。沿岸にギリシア人の植民市が造られ、後にはイスラーム教国のオスマン帝国が進出。18世紀以降はロシアの南下政策が強まる。
バルカン半島の東、小アジアの北、ウクライナとロシアの南に広がる海。北岸に突きだした三角形の半島がクリミア半島。クリミア半島で黒海と区切られているのがアゾフ海。黒海はボスフォラス・ダーダネルス両海峡を通って地中海方面につながる。
黒海沿岸は、広大で肥沃な平原が広がり、豊かな穀物(小麦)の産地として、古代では地中海方面の穀倉地帯として重要視された。ギリシア人は早くからビザンティオン(後のコンスタンティノープル、現在のイスタンブル)などの植民市を黒海沿岸に設けていった。ローマにとっても黒海沿岸は重要な穀物、奴隷の供給地であり、1世紀以降にはトラキア(現在のブルガリア)、ダキア(現在のルーマニア)に属州が置かれた。
その後、北イタリアのヴェネツィアとジェノヴァが黒海に進出し、交易の利益を競っていたが、14世紀末からバルカン半島を北上してきたオスマン帝国が、黒海にも進出するようになった。
オスマン帝国は海軍を編制して黒海を北上し、1475年にはジェノヴァの拠点の一つであったクリミア半島の海港都市クッファを占領した。クリム=ハン国はオスマン帝国の宗主権を認めて保護下に入った。
オスマン帝国はさらに黒海西岸のモルダヴィア公国、ワラキア公国などを属国とし、16世紀までには黒海の海上権を独占し、「オスマンの海」とするに至った。
このようなロシアの南下政策は直接的にまずオスマン帝国との衝突を招いた。エカチェリーナ2世は1768年、クリミア半島の領有をねらって、第1次ロシア=トルコ戦争を戦い、黒海の海戦でもオスマン海軍を破った。1774年の講和条約キュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得するとともに、黒海の自由航行権と海峡の商船の通行権を認めさせた。これはオスマン帝国が黒海の制海権を事実上放棄したことを意味する。さらにオスマン帝国との関係を守っていた同国に対して軍事圧力をかけ、1783年に強制的に併合してしまった。
オスマン帝国がクリミア半島と黒海北岸からのロシアの撤退を求めると、再び戦端が開かれ1787年、第2次ロシア=トルコ戦争となった。ロシア軍は陸軍を主体に戦い、イスタンブル1792年、講和となり、オスマン帝国は正式にロシアのクリミア併合を認めた。
これらの利害が絡んだのが、ギリシア独立戦争だった。オスマン帝国からの独立をめざすギリシアを支援したロシア、イギリス、フランスの三国は1827年、ナヴァリノの海戦(ナヴァリノは地中海で、黒海ではない)でオスマン海軍を破り、ロンドン会議でギリシア王国の独立を認めさせた。
現在では、北岸のロシアとウクライナ間のクリミア半島の帰属問題から発した2014年からのクリミア危機が、ロシアとEU諸国の対立という、現代ヨーロッパの不安定要因となっている。また東岸のジョージア(グルジア)ではアブハジア分離問題などの地域紛争を抱えている。
なお、2004~2012年、幕内力士として活躍した黒海は、黒海に面したアブハジア生まれであった。黒海の西岸にはルーマニアとブルガニアが面しており、ブルガリア出身の力士が琴欧洲(2004年入幕~2014年引退)。二人はほぼ同時代だった。黒海をはさんで生まれた二人が、日本で力士として闘っていたなんていい話ですね。こちらは国際問題にはなりません。
黒海沿岸は、広大で肥沃な平原が広がり、豊かな穀物(小麦)の産地として、古代では地中海方面の穀倉地帯として重要視された。ギリシア人は早くからビザンティオン(後のコンスタンティノープル、現在のイスタンブル)などの植民市を黒海沿岸に設けていった。ローマにとっても黒海沿岸は重要な穀物、奴隷の供給地であり、1世紀以降にはトラキア(現在のブルガリア)、ダキア(現在のルーマニア)に属州が置かれた。
オスマン帝国の北上
13世紀には黒海北岸の草原地帯はモンゴル人のキプチャク=ハン国の支配下に入ったが、15世紀にクリミア半島にはクリミア=タタール人が地方政権クリム=ハン国を樹立した。その後、北イタリアのヴェネツィアとジェノヴァが黒海に進出し、交易の利益を競っていたが、14世紀末からバルカン半島を北上してきたオスマン帝国が、黒海にも進出するようになった。
オスマン帝国は海軍を編制して黒海を北上し、1475年にはジェノヴァの拠点の一つであったクリミア半島の海港都市クッファを占領した。クリム=ハン国はオスマン帝国の宗主権を認めて保護下に入った。
オスマン帝国はさらに黒海西岸のモルダヴィア公国、ワラキア公国などを属国とし、16世紀までには黒海の海上権を独占し、「オスマンの海」とするに至った。
ロシアの南下
17世紀以降は、ロシアが積極的に南下政策をとるようになった。この狙いは黒海を押さえることによってボスフォラス・ダーダネルス両海峡を通り、地中海への進出を可能にすること、であった。特にピョートル1世は、北海方面への進出と並行して黒海への進出もめざし、1696年にはアゾフを占領した。このようなロシアの南下政策は直接的にまずオスマン帝国との衝突を招いた。エカチェリーナ2世は1768年、クリミア半島の領有をねらって、第1次ロシア=トルコ戦争を戦い、黒海の海戦でもオスマン海軍を破った。1774年の講和条約キュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得するとともに、黒海の自由航行権と海峡の商船の通行権を認めさせた。これはオスマン帝国が黒海の制海権を事実上放棄したことを意味する。さらにオスマン帝国との関係を守っていた同国に対して軍事圧力をかけ、1783年に強制的に併合してしまった。
オスマン帝国がクリミア半島と黒海北岸からのロシアの撤退を求めると、再び戦端が開かれ1787年、第2次ロシア=トルコ戦争となった。ロシア軍は陸軍を主体に戦い、イスタンブル1792年、講和となり、オスマン帝国は正式にロシアのクリミア併合を認めた。
東方問題
このようなロシアの黒海進出は、当然、ヨーロッパ列強に強い警戒心を抱かせ、19世紀前半のウィーン体制時代に東方問題としてクローズアップされていった。特にイギリスはロシアが地中海に進出すれば、インドなどのアジアのイギリス植民地とのルートを遮断されることになるので最も強く警戒した。またオーストリアはロシアが旧オスマン帝国領のスラヴ民族の統合を主張することに対し、ゲルマン系住民と結んでバルカンへの進出を図ろうとして強く反発した。フランスはフランス革命・ナポレオン戦争での敗北で失われた国威の回復を東方問題にかかわることで図ろうとした。これらの利害が絡んだのが、ギリシア独立戦争だった。オスマン帝国からの独立をめざすギリシアを支援したロシア、イギリス、フランスの三国は1827年、ナヴァリノの海戦(ナヴァリノは地中海で、黒海ではない)でオスマン海軍を破り、ロンドン会議でギリシア王国の独立を認めさせた。
黒海の航行の国際問題化
このようなロシアの南下政策、オスマン帝国の衰退は、黒海の航行、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通行などに関してヨーロッパ列強の利害が対立を生み出しこととなり、大きな国際問題となっていった。 → 黒海中立化現在では、北岸のロシアとウクライナ間のクリミア半島の帰属問題から発した2014年からのクリミア危機が、ロシアとEU諸国の対立という、現代ヨーロッパの不安定要因となっている。また東岸のジョージア(グルジア)ではアブハジア分離問題などの地域紛争を抱えている。
なお、2004~2012年、幕内力士として活躍した黒海は、黒海に面したアブハジア生まれであった。黒海の西岸にはルーマニアとブルガニアが面しており、ブルガリア出身の力士が琴欧洲(2004年入幕~2014年引退)。二人はほぼ同時代だった。黒海をはさんで生まれた二人が、日本で力士として闘っていたなんていい話ですね。こちらは国際問題にはなりません。
黒海の中立化
ロシアの南下政策
18世紀以降、ロシアが台頭すると、黒海から地中海へのルートに進出しようとする「南下政策」をとるようになり、オスマン帝国と鋭く対立し、何度かの戦争を続けることになる。また、ロシアの地中海進出を危惧する西欧諸国との間にも、黒海の扱いを巡る対立が生じ、黒海の中立化が問題となっていく。黒海の中立化とは、黒海を特定の国が占有するのではなく、公海として扱うと言うことであり、具体的には、黒海での軍艦の航行禁止と沿岸での軍港建設禁止ということである。また、黒海の出入り口であるボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通行権も問題となる。
海峡問題
ロシアは1833年、オスマン帝国とウンキャル=スケレッシ条約を締結して、ロシア軍艦の航行を認めさせ、他国の軍艦の航行を禁止した。しかし、1841年のロンドン会議で成立した5国海峡協定によってウンキャル=スケレッシ条約を廃棄、各国軍艦の航行は禁止され、海峡は封鎖された。さらに1856年、クリミア戦争後のパリ条約で、黒海中立化、海峡封鎖の原則が確認された。さらに、露土戦争後のベルリン条約でも、海峡のオスマン帝国艦船以外の航行禁止が確認されたため、ロシアの黒海艦隊は、後の日露戦争でも出動できなかった。なお、日露戦争の最中、ロシアの黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの反乱が起こっている。