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ムハンマド=アフマド

1881年、スーダンでマフディー(救世主)を宣言、マフディーの反乱を指導しエジプト軍・イギリス軍と戦った。

ムハンマド=アフマド
Muhammad Ahmad
1844-85
 信仰心篤い船大工の息子のムハンマド=アフマドは、スーダンのイスラーム教スーフィー教団の一つサムマーニーア教団で修業を重ね、37歳になった1881年6月29日、「マフディー宣言」を行った。マフディーとは、7世紀末からイスラーム世界でみられる、救世主あるいは神への導き手を意味することばで、それまでにも何人か現れていた。当時スーダンはエジプトに支配されており、水車税など新たな税を賦課などに苦しめられていた民衆は、マフディーの呼びかけに応じて反乱に立ち上がり、マフディーの反乱が始まった。

マフディーの反乱

 同じ1881年、エジプトではウラービーの反乱が始まっていたため、エジプト軍はマフディー反乱に手間取り、 マフディー教団は「マフディー国家」ともいえる力を持つようになった。エジプトのウラービーの反乱を鎮圧したイギリス軍が本格的な装備でマフディー教団を攻撃したが、それも敗れ、スーダンの中心都市ハルトゥームはマフディー軍に包囲されて孤立してしまった。1884年、ハルトゥーム救援にゴードンが派遣されたが、彼も又翌年1月敗死した。しかし、翌85年、ムハンマド=アフマドは急死し、教団は後継者カリファ=アブドゥラヒが引き継いでなおも戦いを続ける。
 その後もスーダンのマフディー国家は存続したが、1896年にイギリスはキッチナー指揮の下に最新の兵器と数万の軍隊を派遣し、1897年9月、マフディー国家の都オムドゥルマンを占領、マフディー反乱を鎮圧した。オムドゥルマン陥落の時、キッチナー軍のイギリス兵は、マフディーの墓を暴き、首をカイロに送りそれ以外は川に捨てたという。<川田順蔵編『アフリカ史』世界各国史10 山川出版社 p.423-428>
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