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スーダン(1) 植民地化に対する抵抗

スーダンは本来は黒人の住むアフリカ全域を意味した。後にナイル上流、エジプトの南に接する地域の国名として用いられるようになった。14世紀にイスラーム化し、19世紀はじめにエジプトの支配を受け、継いでイギリスが植民地化した。1880年代のマフディーの反乱を鎮圧し、イギリス領に組み込んだ。

スーダン・南スーダン

スーダンとは「黒人たちの国」の意味で、広義にはエジプトなど地中海岸を除いた黒人の住むアフリカ全般を示す呼称であった。狭い意味ではサハラ南部、スーダン・チャド・ニジェール・マリなどを意味したが、次第にエジプトの南に位置するナイル川上流の都市アスワン以北の地域を刺すようになった。現在のスーダン・南スーダン一帯は、エジプトではヌビア(エジプト語で金を意味するネブからきた)といわれ、古くはヌビア人のクシュ王国メロエ王国などあった。エジプトとエチオピアの双方とも関係が深かく、抗争の地でもあった。1世紀にエジプトのアレクサンドリアではキリスト教が盛んになり、やがてローマ教会とは異なる独自の東方キリスト教のひとつであるコプト教会となり、ヌビア(スーダン)からエチオピア一帯に広がった。4世紀にメロエ王国が崩壊した後、ナイル川上流域のヌビア人は三つの王国に分かれ、キリスト教信仰を守った。

スーダンのイスラーム化

 641年イスラーム勢力はエジプトを征服、さらにヌビア地方にも及んできた。キリスト教勢力は頑強に抵抗し、652年に停戦、南部の黒人奴隷を毎年360人ずつ与えることで同意、その後500年間、黒人奴隷を主要な輸出品とする交易が続いた。この間、イスラーム世界エジプトの支配はファーティマ朝からサラディンのアイユーブ朝に代わり、さらにマムルーク朝に遷った。アイユーブ朝以降、ヌビアに対する軍事侵攻が続き、ついに1317年にイスラーム教徒が王位につき、キリスト教の聖堂はイスラームのモスクに変えられたことでヌビアのイスラーム化が確定した。
 16世紀に北スーダンに最初のイスラーム黒人国家としてフンジ王国(1505~1821年)が成立した。フンジ王国は紅海沿岸まで支配下に収め、金と奴隷を求めてやってくるイスラーム商人と交易しながら、アラビア語を身につけてアラブ人として自覚するようになった。同じころ、現在のスーダン政府のダルフール地方には、同じくイスラーム教国ダルフール王国(1596~1874年)が存在し、この両王国の時代にスーダンのイスラーム化が進んだ。

エジプトとイギリスの支配

 エジプトの南のナイル上流域に広がる広大な地域はスーダンと呼ばれるようになった。19世紀には、オスマン帝国からの独立をはかるエジプト太守ムハンマド=アリーはスーダンへの勢力拡大をねらって侵攻を開始、1821年にフンジ王国を滅ぼし、西スーダンのダルフール王国をその勢力下に入れた。これによってスーダンはほぼエジプトが領有することとなったが、ついでエジプト植民地化を進めたイギリスが、1869年にスーダンにも進出するようになった。スーダンを支配したエジプトは、水車税や通行税など新たな税を強制し、民衆の中に反発が強まった。

マフディーの反乱

 そのような中、1881年6月にスーフィー教団の中から現れたムハンマド=アフマドは、自らマフディー(救世主の意味)であると称してマフディーの反乱を開始した。同じ年、エジプトではウラービーの反乱が始まっていたため、エジプト軍はマフディー反乱を鎮圧することができず、スーダンは マフディー教団による「マフディー国家」が成立した。イギリスはウラービーの反乱を鎮圧した後、ようやく本格的な攻撃を行ったが、イギリス軍も大敗し、スーダンの中心都市ハルトゥームはマフディー軍に包囲されて孤立してしまった。

ゴードン将軍の戦死

 1884年、中国の太平天国鎮定で名を知られたゴードン将軍がハルトゥーム救援に派遣されたが、彼も又翌1885年1月26日に敗死した。翌85年、ムハンマド=アフマドは急死したが、教団は後継者カリファ=アブドゥラヒが引き継いでなおも戦いを続けた。
 スーダンのマフディー国家はその後も約10年にわたって存続したが、1896年にイギリスはキッチナー指揮の下に最新の兵器と数万の軍隊を派遣し、1897年9月、マフディー国家の都オムドゥルマンを占領した。

ファショダ事件

イギリスがスーダン制圧を急いだのは、そのころフランスがアフリカ横断政策をとり、サハラからエチオピア方面をめざし、スーダンに進出していたためであった。アフリカ縦断政策をとるイギリスは、スーダンを抑えなければならなくなり、スーダンはにわかに帝国主義列強の衝突する場所となった。両軍は1898年、スーダンのファショダで遭遇したのがファショダ事件であったが、両国は全面衝突を回避し、アフリカ分割の協議に入ることとなる。
 19世紀末、ヨーロッパの帝国主義列強によるアフリカ分割の後、現在ではイギリスが支配した地域をアングロ=エジプティアン=スーダン(現在のスーダン共和国)、フランスの支配した地域をフランス領スーダン(現在のマリ共和国)というようになった。

イギリス領スーダン

 スーダンではイギリス軍がマフディー反乱を鎮圧した1899年から形の上ではエジプトとイギリスの共同統治とされたが、事実上はイギリスの植民地支配を受けることとなった。

スーダン(2) スーダンの独立

1956年、イギリスからの独立を宣言。しかし、北部のイスラーム教徒と南部のキリスト教徒の対立が根深く、内戦が続く。2011年、南スーダンが分離独立したが、完全な和平には至っていない。

スーダンの独立

 エジプト革命によって1953年に生まれたエジプト共和国がスーダンの併合を要求すると、イギリスはそれを拒否し、自治権を与えることにした。1955年末、スーダンの議会はイギリスからの独立を決議し、翌1956年1月1日、スーダン共和国は独立した。アフリカ諸国が一斉に独立する1960年アフリカの年の前のことであった。
 スーダンは南部スーダンが分離独立する前は、アフリカ諸国最大の面積(約250万平方km、日本の7倍)を有する国家であった。人口は約3800万。そのうち40%はアラブ系でイスラーム教徒だが、約30%のアフリカ系(黒人でキリスト教徒や伝統宗教を守る非イスラーム)が南部に集中していた。首都はハルツーム。エジプトの南部、ナイル川上流に位置し、その東側はエチオピア、西側はチャド。

二度にわたる内戦

 独立以前からは北部のイスラーム教徒と南部のキリスト教徒及びアフリカ土俗的信仰地域との間に紛争が絶えず、政情不安定でクーデタが相次いだ。その間、スーダン内戦といわれる激しい紛争が、1955~72年の第一次と1983~2004年の第2次の二度にわたって展開された。
 1989年からはイスラーム原理主義が台頭し、その支持を受けたバシル軍事政権が成立、それに対して南部の非イスラーム勢力が分離独立を主張して始まったのが第2次内戦である。1993年、アメリカは、スーダンに対して、テロ支援国家に指定し、警戒を強めた。国連やアフリカ連合(AU)の働きかけもあってようやく2002年に停戦に合意した。

ダルフール紛争

 2003年2月からは西部のダルフール地方で、同じイスラーム教徒でありながら、アラブ人の現政権による非アラブ人への暴力行為などから民族紛争であるダルフール紛争が起こり、大規模な民族浄化と称する残虐行為が問題となった。2009年3月には国際刑事裁判所(ICC)がバシル大統領を虐殺など非人道的行為(ジェノサイド条約違反)を指揮したとして逮捕命令を出したが、大統領は従わなかった。
 国際刑事裁判所の逮捕状にかかわらず、バシル大統領はその地位にとどまり、外交活動も続けた。それは、国連安保理の常任理事国ロシアと中国がバジルを支持していたため、国際連合が動けなかったことによる。バジルに対する強制的な逮捕の執行に対して両国が拒否権を行使することが考えられたためであった。ロシアはアメリカ主導の事態収拾に反発し、中国はスーダンの油田開発と鉄道建設でバシル政権と深く結びついていた。またアラブのイスラーム諸国(スンナ派諸国)がいずれもバジルを支持しており、西欧寄りの国際刑事裁判所に対する反発も強かった。

南部スーダンの分離独立

 萬部スーダンの分離独立運動は、2002年のケニアで開始された停戦交渉の結果、2005年に包括的な和平が成立し、南部スーダンは6年間の自治期間を経た上で帰属を決定する住民投票を実施することとなった。2011年1月に住民投票が実施された結果、98.8%が独立賛成に投票し、独立することが決まった。北部スーダンのバシル大統領も南部の独立を容認する声明を発し、同2011年7月9日に「南スーダン共和国」として正式に独立した。アフリカでは54番目の独立国である。ただし、境界線付近のアビエイ地区では紛争がその後も続いた。また石油資源は南部に集中しており、北部の不満が潜在的に続いている。

バシル政権の崩壊

 2018年から、バシル大統領の長期独裁政権に対する不満から各地でデモがひろがり、2019年4月11日、軍が大統領に辞職勧告を突きつけたが、それを拒否したことで軍によって逮捕され、バシル政権は崩壊した。暫定政権はバシルを拘束し、その不正な蓄財などに対する裁判を開始した。しかし、国際刑事裁判所の身柄引き渡しには応じておらず、バシルは国内の獄中に留まっている。そのため、ダルフール紛争における大量殺害(ジェノサイド)の責任追及は宙に浮いたままになっている。<2022/7/14現在>
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