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マフディー運動/マフディーの反乱/マフディー国家

19世紀末、アフリカのスーダンで起こったイスラーム教徒による反エジプト・イギリス闘争。1881年、マフディー(救世主)と称したムハンマド=アフマドに率いられ、マフディー国家を作りハルトゥームを占拠、イギリスに激しく抵抗した。1899年までにイギリス軍により鎮圧された。

マフディ教徒

マフディ戦士

 マフディーとはアラビア語で「導かれた者」、または「救世主」を意味する。1881年6月、スーダンムハンマド=アフマドは、自らマフディーを名乗り、イスラーム教徒を結集してスーダンを支配するエジプト政府に対する反乱に立ち上がった。それはエジプト政府が人頭税など過酷な課税を課していることに対して、それがイスラーム本来のコーランやシャリーア(イスラーム法)に反しているとして、自らそれを正す救世主(マフディー)となるという宗教運動であった。マフディーに指導されたイスラーム教徒(マフディー教徒)は山岳部を拠点に独自のイスラーム国家を建設をめざした。

ハルトゥームを占領、国家を建設

ゴードン将軍の戦死  スーダンはエジプトの支配下にあったが、同じ1881年9月にそのエジプトでも反英闘争であるウラービーの反乱が起こったため、スーダンの反乱鎮圧が困難であり、スーダンの中心都市ハルトゥームは反乱軍に包囲され、苦境に陥った。
 イギリスは、中国で常勝軍を組織して太平天国の乱を鎮圧したゴードンを総督に任命し、攻勢をかけたが、1885年には要地ハルトゥームの戦闘で戦死した。マフディー教徒はスーダンを占拠してたびたびエジプトにも運動を広げ、マフディー国家を樹立した。
ファショダ事件  その間、フランスがサハラ方面からエチオピアへのアフリカ横断政策をとってスーダンに進出してきたので、イギリスはアフリカ縦断政策にもとづきスーダン制圧を決意、1896年にキッチナー将軍の指揮で本格的に侵攻し、98年にはファショダ事件でフランスの勢力を排除し、さらに1899年にマフディー軍を全滅させて鎮圧に成功した。以後スーダンはイギリス植民地として1956年の独立まで支配される。 → アフリカ分割

Episode キッチナー将軍

 マフディー教徒の反乱でのゴードンの戦死はイギリスを驚かせた。後任となったキッチナーは負けるわけにはいかなかった。キッチナー軍は鉄道を敷設しながらスーダンに侵攻し、ファショダ事件でフランスを排除し、マフディー軍との戦いでは徹底的な殲滅戦を展開してそれを制圧した。イギリス軍はこの時世界で初めて機関銃を使用した。キッチナーは続いて南アフリカ戦争でもイギリス軍を勝利に導き、軍人としての名声を高めた。彼が三度目に脚光を浴びたのは第一次世界大戦がはじまったからであった。彼は陸軍大臣として迎えられ、人気のある彼の呼びかけで多くの青年が軍隊に志願した(イギリスは志願兵制)という。しかし、1916年に乗艦が撃沈されて戦死した。キッチナーはイギリス帝国主義を代表する軍人であったといえる。

「マフディの反乱」か「マフディ運動」か

 スーダンにおける1881年の「マフディーの反乱」はもっぱら「イスラーム教徒による反英闘争」の文脈として説明されていた。しかしそれは最初から反英闘争だたのではなく、エジプト(その背後のオスマン帝国)の支配に対する抵抗運動から始まったものもであり、マフディーという宗教指導者に指導された宗教運動としての側面が強かった。そして一時はハルトゥームを選挙してマフディー国家を樹立した。イギリスがハルトゥームを奪回しようとしたことから、この闘いは「反英闘争」あるいはイギリスとの戦争という性格をもつこととなった。
イスラーム運動としてのマディー運動 同じような、19世紀後半におけるアフリカの民族運動・反植民地運動に、イスラーム教信仰がよりどころとなったものに、東スーダンのマフディー運動以外に、アルジェリアのフーフィー派イスラーム指導者アブド・アルカーディルが指導した半植民地運動、西アフリカのギニアを中心に強大な勢力圏を形作ったサモリのイスラーム帝国などがある。<川田順造『アフリカ』1993 地域からの世界史 p.180>
 ここで紹介した映画も、あくまでイギリス側の視点で描いており「反乱」として描かれている。現在の世界史用語では「マフディーの反乱」とするより「マフディー運動」とするものが多くなっている。その説明も、「スーダンの宗教運動および反英武力闘争」となった<改訂版山川世界史用語集 2022 p.263>。しかし、近代史の重要事項であるはずだが、『歴史総合』には取り上げられておらず、山川『歴史総合用語解説』からも抜け落ちている。これはどういうことなのだろうか。

史料 マフディー運動

 スーダンは1820年以来、エジプトの属領となっていたが、1881年、自らを「マフディー(神にみちびかれた者)」だと主張するムハンマド・アフマドに指導された反乱が発生した。運動は全土に広がり、1885年には首都ハルトゥームが陥落、「マフディー国家」が成立する。次の史料は1882年9月ごろ、マフディーが支持者たちに発した布告の一部である。当時、スーダンを支配していたエジプトの政権はトルコ系で、さらにその背後にはオスマン帝国があったので、マフディーはまず「トルコ人」にたいする批判を表明している。
(引用)いと高き神の言葉に、「汝らのなかで最も尊い者は、最もよく神を畏れる者である」(コーラン49章13節)とある通りである。もしあなた方が自分で良く考えをめぐらし、目を見開いて見るならば、このことは天頂で輝く太陽のように明らかな真実だということが分かるだろう。特にトルコ人たちに起こったことは、最大の教訓であり、最も良い事例である。トルコ人たちは、神が恩恵を与え、長きにわたって繁栄を与えると、権力は自分たちのものであり、自分たちが決定権を握っているのだと思い込み、神の使徒や預言者たち、また神が彼らに従うことを命じた者たちの命に背いた。そして、神によって下されたもの以外によって治め、預言者ムハンマドのシャリーア(法)を変え、神の教えを冒涜し、あなた方に、他のムスリムたちとともにジズヤ(人頭税)を課した。こんなことは、神もその預言者も命じてはいない。にもかかわらず、神は彼らを猶予し、恩恵を与え続けたが、彼らが思い致すことがなかったので、ついには彼らを見捨て、彼らの権力の衣を、神の則(のり)に背いたために剥奪するに至った。
 そんなわけで今や彼らがあなた方のもとで、どのようなありさまになったかを見るがいい。神はあなた方に力を与え、あなた方が彼らの兵器にもかかわらず、彼らを制圧し、彼らに代わってその領土や財物を受け継ぐことを可能にした。神はあなた方には、これまであなた方から隠されていたものを見ることを、あなた方の弱さや無力さにもかかわらずお許しに也、その一方で彼らのことは、虚栄と欲望で破滅させたのである。(中略)トルコ人たちはあなた方のなかの男は鎖につないで引き回し、枷をはめて投獄し、女や子供を捕らえ、神の命に背いて、正当な理由もなしに人を殺した。これらすべては、神もその預言者も命じていないジズヤのためで、にもかかわらず彼らはあなた方のなかの年少者に慈悲を示すこともなければ、年長者に敬意を払うこともなかったのである。さて、あなた方がこうしたことすべてを忘れ、神のためのジハード(聖戦)に馳せ参じることを怠るなどということがあってよいのか。・・・・・・<歴史学研究会『世界史史料集8』p.173 マフディーの布告 栗田禎子訳>
解説のポイント
  • マフディーの訴えは「トルコ人」(エジプト及びその背後のオスマン帝国)がシャリーア(イスラーム法)を変えたこと批判し、神によって下されもの(コーラン)に基づく政治を行うことであった。この論旨は、アラビア半島のワッハーブ派の主張とも共通している。
  • シャリーアからの逸脱の具体例としてあげられるのがエジプト支配下での圧政、特に人頭税の課税である。これは主にスーダン西部の牧畜民に課せられ、成人男子を対象としたことから「顎鬚税」と呼ばれていた。マフディーはこれを、本来イスラーム法上は、ムスリムに課してはならないはずの「ジズヤ」であると位置づけて批判の対象とした。
<『同上書』p.174 栗田禎子解説の要点>
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書籍案内

川田 順造
『アフリカ』
地域からの世界史 9
1993 朝日新聞社

DVD案内

ラルフ=リチャードソン
『四枚の羽根』
1939 Z・コルダ監督

2002年『サハラに舞う羽根』としてリメークされた。イギリス士官から見たスーダンでの植民地戦争を描く。

アメリカ映画
『カーツーム』
B・ディアディン監督

チャールトン・ヘストンがゴードン将軍、ローレンス・オリビエがマフディー、ラルフ・リチャードソンがグラッドストン首相を演じる。