ウラービー(アラービー、オラービー)
エジプトの反英民族闘争の指導者。1881年に英仏の支配に反発し、立憲政治実現を要求して革命を試みたがイギリス軍によって鎮圧される。しかしその運動がかかげた「エジプト人のエジプト」はエジプト最初の民族運動の理念として受け継がれていく。
イギリスのエジプト侵出
19世紀中頃のエジプトでは、1875年のディズレーリ首相によるスエズ運河株買収いらい、イギリス第二帝国による侵略が続き、さらにフランスも介入して、その二国による経済的支配は政治干渉も及んで二国管理体制下におかれるようになった。革命をイギリス軍につぶされる
ウラービー=パシャはその状況に強く反発、1881年、クーデタをおこしてエジプト王を退位させ実権を握り、立憲政治の実現などのウラービー革命を進めようとした。しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、陸上からも攻撃して革命を抑えつけた。その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流された。彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスローガンは、その後のエジプト民族運動に受け継がれ、ウラービー運動といわれるようになる。 → アラブ民族主義運動注意 「ウラービー」の表記と「運動」か「反乱」か「革命」か ウラービー ʻUrābī の名は上述のようにオラービー、あるいはアラービーという記載が今も見かけるが最近はほぼウラービーで定着したようだ。ただその歴史上の出来事の表記は今もさまざまなようだ。山川の教科書と用語集は「運動」としているが、かつては山川も〝ウラービーの反乱〟といい、今もそうしている教科書もある。しかし、その実態や歴史的意義を考えれば、〝ウラービー革命〟と言うべきではないかと思われる。明確にエジプトでの立憲政治実現を目指し、1881~82年には実権を握るのに成功している。けして単なる「運動」や「反乱」のレベルではなかった。しかし、ウラービーの革命政権を武力で鎮圧したイギリスによって、それは「反乱」に終わらされてしまった。いわば「未完の革命」であったが、イギリスの側から見れば「反乱」と言うことになる。日本の世界史教科書が長くオラービーの「反乱」としていたのは20世紀のイギリスの立場からの見方だったわけで、現代の観点からは正しい見方とは言えない。学習上は「運動」や「反乱」として誤りではないが、そこには「革命」と言う本質があったことも理解しておこう。
ウラービー革命(反乱)
1881年、ムハンマド=アリー朝のエジプトでウラービーらが英仏二国による管理体制を打破し、立憲政治樹立を目指して決起した革命運動。翌年のイギリス軍の軍事介入で弾圧されたが、アラブの最初の民族運動として重要である。
長くオスマン帝国の支配を受けていたエジプトは、19世紀初めにムハンマド=アリーのもとで実質的な独立を勝ち取ってムハンマド=アリー朝を成立させ、エジプト=トルコ戦争などでその勢力を拡大し、近代化を目指す改革も実施したが、そのために財政は次第に悪化してきた。
革命的動きに押された副王政府はウラービーを陸軍大臣に就任させ、憲法を制定して議会開設を決定し、革命は成就したかと思われたが、1882年、イギリス軍が直接介入、アレクサンドリアに上陸して革命軍に砲撃を加えたため、鎮圧された。ウラービーは捕らえられてセイロン島に流された。
エジプトはイギリスの植民地として支配されることとなったが、ウラービーの掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟をスローガンとして継承したウラービー運動と言われるエジプト民族運動がねばり強く続きいた。第一次世界大戦後の1918年、民族主義政党ワフド党が結成され反英独立運動を展開し、1922年には「エジプト王国」が独立を回復した。しかしイギリスはエジプトの防衛権、スエズ運河地帯駐屯、スーダン領有などを続けていたので、実質的な独立は第二次世界大戦後の1952年のエジプト革命を待たなければならない。
農商務大臣谷干城の秘書官として随行した柴四朗は明治19年から20年の欧米視察の途次にセイロンに流されていたウラービーを訪ね、その人となりに感銘を受けた。柴四朗は旧会津藩士で、幕末の会津藩と同じ状況に置かれていることを感じ、帰国後、東海散士の筆名で政治小説『佳人之奇遇』を発表、その中でウラービー=パシャの口を借りる形で、列強による植民地化の巧みな手口への警戒を呼びかけた。亜刺飛将軍という名で出てくるウラービーは、特に恐ろしいのは「貨幣運用の邪説」だとして、外債に依存して、結局のところ富を奪われ、金権まで握られてしまうことに警鐘を鳴らしている。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論新社 p.222-225>
オスマン帝国の情勢
この間、エジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国は、1839年からタンジマートと言われる近代化改革を進め、1853~56年のクリミア戦争ではロシアの南下を阻止した。イギリス・フランスなど西欧諸国への依存がますます強まるなか、西欧化の圧力がさらに加わり、1876年にはアジア最初の憲法であるミドハト憲法が制定された。しかし、スルタンのアブデュルハミト2世は露土戦争の勃発を理由に憲法を停止、さらに戦後は独裁体制を強めていった。ムハンマド=アリー朝のエジプト
この間、エジプトにおいても副王イスマーイールのもとで、ますますイギリス・フランスへの依存が強まっていた。1862年にエジプト政府は、はじめて外債を募集、以後雪だるま式に外債が増加してゆき、財政難に陥ったエジプト政府は、1869年に建設したばかりのスエズ運河会社の株式を、早くも1875年にイギリスに売却(イギリスのスエズ運河株買収)した。翌76年、エジプト財政は破綻し、イギリス・フランスなどの列強によって管理されるこという事態に陥った。「エジプト人のためのエジプト」を掲げる
このようなエジプトの実質的な植民地化という危機に対して、エジプト人の真の独立を求めるアフマド=ウラービーなど陸軍の将校が中心となって、ワターニューン(愛国者たち、ワタン党)という秘密結社が結成された。彼らは長くトルコ人などに支配されて、さらに政治と経済の実権をイギリスに握られたエジプトの現状を打破し、「エジプト人のためのエジプト」を実現する子とを目指す民族独立運動を開始した。この運動にはアフガーニーとその弟子のムハンマド=アブドゥフなどのウラマー(イスラーム知識人)が加わっていた。反乱の勃発
そうした中、1881年にウラービー大佐が蜂起し、ウラービーの反乱が始まった。これはエジプト最初の民族主義運動であり、イギリス・フランス二国による財政管理の廃止などの反ヨーロッパ列強、反オスマン帝国、反エジプト副王(当時はエジプト総督は副王=ヘディーウを称号としていた)など多面的な要求を掲げ、議会制の樹立、外国軍隊の撤退、自国軍の増強などをめざした「ウラービー革命」とも言える動きだった。また、20世紀に活発に起こってくるアラブ民族主義運動の先駆的な運動であった。革命的動きに押された副王政府はウラービーを陸軍大臣に就任させ、憲法を制定して議会開設を決定し、革命は成就したかと思われたが、1882年、イギリス軍が直接介入、アレクサンドリアに上陸して革命軍に砲撃を加えたため、鎮圧された。ウラービーは捕らえられてセイロン島に流された。
反乱後の情勢
この反乱を鎮圧したイギリスはエジプトを単独軍事占領のもとに置き、実質的な保護国化を図った。ただし、正式にイギリスがエジプトを保護国とするのは、1914年のことである。エジプトはイギリスの植民地として支配されることとなったが、ウラービーの掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟をスローガンとして継承したウラービー運動と言われるエジプト民族運動がねばり強く続きいた。第一次世界大戦後の1918年、民族主義政党ワフド党が結成され反英独立運動を展開し、1922年には「エジプト王国」が独立を回復した。しかしイギリスはエジプトの防衛権、スエズ運河地帯駐屯、スーダン領有などを続けていたので、実質的な独立は第二次世界大戦後の1952年のエジプト革命を待たなければならない。
Episode ウラービーを訪ねた日本人
1881(明治14)年のエジプトのオラービーの革命とその失敗は、日本にも影響を与えた。日本では明治14年の政変が起こり、自由民権運動が始まるという時期であった。また西欧列強との不平等条約の改正が国家目標とされていた。エジプトの苦境は日本にとっても他人事ではなかった。農商務大臣谷干城の秘書官として随行した柴四朗は明治19年から20年の欧米視察の途次にセイロンに流されていたウラービーを訪ね、その人となりに感銘を受けた。柴四朗は旧会津藩士で、幕末の会津藩と同じ状況に置かれていることを感じ、帰国後、東海散士の筆名で政治小説『佳人之奇遇』を発表、その中でウラービー=パシャの口を借りる形で、列強による植民地化の巧みな手口への警戒を呼びかけた。亜刺飛将軍という名で出てくるウラービーは、特に恐ろしいのは「貨幣運用の邪説」だとして、外債に依存して、結局のところ富を奪われ、金権まで握られてしまうことに警鐘を鳴らしている。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論新社 p.222-225>
ウラービー運動
19世紀末、ウラービーの革命運動に始まる「エジプト人のためのエジプト」をめざす民族運動。