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ズールー人,ズールー戦争

アフリカ南端、現在の南アフリカ共和国の北東海岸地方にいた原住民の黒人部族。19世紀の初めに、ナタールに強大な王国をつくったが、その地に入ったブール人がナタール共和国をつくった。1879年、イギリス軍が侵攻しズールー戦争となり、激しく抵抗したが敗れて征服された。

ズールー王国

 ズールー Zulu 人はアフリカ南端の東側海岸部に広く居住しており、1820年頃、シャカという王に率いられて王国をつくった。シャカ王は強大な軍隊を持ち、中央集権的な軍事国家を作り上げた。ズールー王国が覇権を確立するまでは周辺諸民族間の激しい戦い(ムフェカネという)が続き、混乱した。
 1828年にディンガネがシャカ王を暗殺して王となったが、そのころからケープ植民地から北上したオランダ系白人入植者ブール人(現在ではアフリカーナーと言われることが多い)が、イギリス勢力に追われて北上するグレート=トレックがはじまり、1837年にはいったん撃退したが、翌1838年に、プレトリウスの率いる一隊との「血の河の戦い」で大敗し、ブール人は翌年、ナタール共和国を建国した。しかしイギリス勢力の圧力は続き、1843年にナタールを制圧してケープ植民地に併合、1856年に分離してナタール植民地とした。また現地人の部族名からズールーランドとも言われた。

ズールー戦争

 1878年にイギリスはズールーランドのズールー人の制圧をねらい、1879年1月、ズールー戦争を開始、ズールー王国は激しく抵抗し、一時はイギリス軍を撤退させたが、体勢を立て直したイギリス軍によって、9月に制圧された。
 スールー王国は存続したが、1884年には領土の一部をトランスヴァール共和国に割譲、87年に残る全領土をイギリスに併合された。国土を失った国王が翌88年、イギリスからの決起を試みたが失敗して流刑となった。1906年には「ズールーの反乱」ともいわれるバンバタの反乱が起こったが鎮圧され、それ以後は武力蜂起はなくなった。1910年にイギリス帝国内の自治領として南アフリカ連邦が成立すると、かつてズールー王国であった地域の大部分はナタール州として連邦の一部となった。南アフリカ連邦の白人政権は、黒人の民族運動の勃発を恐れ、1920年代からズールー王族を王として復活させ、その懐柔を図った。

参考 ガンディーの見たズールー人の「反乱」

 1906年2月、ナタールでズールー人による「バンバタの反乱」といわれる出来事があった。それは、世界史上、南アフリカにおける最後のアフリカ人首長の反乱といわれている。すでに南アフリカでの植民地支配を確立していたイギリスにとっては、それは「反乱」であったが、イギリス軍に協力してその鎮圧にあたったインド人のガンディーにはまったく違ったものに見えた。ガンディーはナタールのダーバンなどで弁護士業を開業し、インド人移民の人権問題に取り組んでいたが、1899年に南アフリカ戦争が起こったときにイギリス軍に協力して野戦病院隊を組織して参加したのと同じように、イギリス市民権を要求している立場からすればイギリス軍に協力することは義務である、と考えたのだった。
 しかし、戦場でガンディーがみたものは「反乱」ではなかった。抵抗らしい影はなに一つ見当たらない。この騒ぎが反乱という大仰なものになったわけは、一人のズールー族の首長が、彼の部族の人々に課せられた新税の不納を扇動し、そして税金の徴収に出かけてきた警部が襲撃されたことだった。そしてガンディーらに与えられた任務は前線から送られてくる負傷したズールー人の治療だった。白人は彼らを治療するのを拒否しているからだった。ズールー人の中には帰順したものもいて、彼らはそのしるしにバッジをつけていたが、それでも白人に撃たれたり、殴打され、傷口が化膿したまま送り込まれていた。
(引用)ズールー族の反乱は、新しい経験で満ち満ちていた。そしてわたしに心の糧をいっぱい与えてくれた。ボーア戦争は、この「反乱」ほどの生々しさをもって戦争の恐ろしさをわたしに知らせてはくれなかった。これは戦争ではなく、人間狩りだった。これはわたしの見解であるばかりでなく、わたしが話し合ったことのあるイギリス人の多くの見解だった。毎日、朝になると、罪のない村落で、花火のように兵隊のライフル銃が炸裂するのを聞いたり、そういう彼らにまじって生活したりすることは一つの試練であった。しかし、わたしはこの苦しい経験を耐え忍んだ。特にわたしの隊の仕事は、負傷したズールー族の治療だけだったからである。もし私たちがいなかったら、ズールー族をだれも介抱してくれなかったであろう。したがって、この仕事はわたしの良心を安んじさせてくれた。<ガンディー/蝋山芳郎訳『ガンディー自伝』1983 中公文庫 p.242>
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