トランスヴァール共和国/トランスヴァール独立戦争
南アフリカのケープ植民地から北上したブール人が1852年に建てた国。1877年、イギリスに併合された後、1880年の独立戦争(第一次南ア戦争)で自治国として独立したが、その後金鉱山が発見され、イギリスの侵攻を受け、第2次南ア戦争(1899~1902年)で征服され、南アフリカ連邦の一州とされる。
16世紀に南アフリカのケープ植民地に入植したオランダ人の子孫であるブール人(アフリカーナー)は、1815年にウィーン議定書でその地がイギリス領になってイギリス人が入植するようになり、圧迫されるようになった。1830年代後半、彼らブール人は新たな天地を求めて北方に大移動を開始、いわゆるグレート=トレックをおこなった。その中の一隊は途中、アフリカ現地のズールー人の抵抗を排撃して、1839年にナタール共和国をつくった。しかしイギリスはそれを認めず、1842年に攻撃してそれを滅ぼした。ナタールを脱出したブール人は他の集団と合同しながら北上し、ヴァール川の向こう岸に定着して、1852年3月にトランスヴァール共和国を建国し、首都プレトリアを建設、イギリスもそれを承認した。トランスヴァールとは「ヴァール川の向こう側」という意味である。またブール人の別な一隊は、オレンジ川を超えたところに1854年2月23日にオレンジ自由国を樹立した。
イギリスに併合される
イギリスは1870年代に入り、帝国主義的な膨張策を採るようになると、ブール人がケープ植民地の北方に独立した国家をつくることは、ケープとカイロを結ぶいわゆるアフリカ縦断政策の障害になると考えていたが、さらに1867年にオレンジ自由国でダイヤモンド鉱が発見されたこともあってこの二国の併合を策し、まず1877年4月に軍隊をプレトリアに派遣し、トランスヴァール共和国の大統領を脅迫・買収して強引に併合を宣言した。それに対してトランスヴァール共和国では副大統領クリューガーが中心になって併合を拒否し、反対運動を展開した。第1次ブール戦争(トランスヴァール独立戦争)
イギリスはトランスヴァール共和国を併合したものの、1879年に隣接するズールー人とのズールー戦争が起こったことで手を焼き、苦境に立っていた。その情勢を利用し、トランスヴァール共和国独立を掲げるクリューガーらが、オレンジ自由国の支援を受けて、1880年に挙兵した。戦いは現地を知っているトランスヴァール軍が優勢に進め、1881年2月にはマジュバの戦いで勝利を占めた。イギリスでもグラッドストーンの自由党内閣が成立、トランスヴァール仮政府との間で8月にプレトリア協定を結び講和した。4月にはディズレーリが死去していた。プレトリア協定はトランスヴァールに自治権を与えるものの、イギリスの主権も盛り込んでおり、完全独立を目指す側からは不満であり、またイギリス国内の植民地主義者に自治権付与は不満であったので、解釈次第で評価が分かれ、とりあえず戦闘を終わらせたにすぎなかった。この戦いはトランスヴァール独立戦争と言われたが、続いて起きるブール戦争の前哨戦でもあったので、第1次ブール戦争ともいわれる。セシル=ローズ
オレンジ自由国のダイヤモンドにつづき、1885年にトランスヴァールのウィットワーテルスランド(通称ランド地方)で金鉱が発見された。ブール人の勢力拡大を恐れたイギリスは、ダイヤモンドや金鉱の鉱山経営者として勢力のあったセシル=ローズを1890年にケープ植民地首相に任命して、トランスヴァールの北方の中央アフリカ(後のローデシア)を征服し、南北からトランスヴァールを圧迫した。さらにセシル=ローズは、1895年にトランスヴァール政府を転覆させるジェームソン侵入事件をたくらんだが、それには失敗した。この事件は南アフリカ各地のブール人の反イギリス感情を刺激した。南アフリカ戦争(第2次ブール戦争)
セシル=ローズはこの事件で国際的な非難を浴びてケープ植民市首相を辞任したが、代わって本国の植民相であったジョゼフ=チェンバレンは、金鉱・ダイヤモンドなどの資源を狙い、さらにアフリカのエジプト・スーダンとの連絡をつけるためのアフリカ縦断政策を推進するために、トランスヴァール及びオレンジ自由国の併合を完成させようとした。1899年10月、ついにケープ植民地政府は、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国のブール人の二つの国家に対する征服戦争である南アフリカ戦争(ボーア戦争)を開始し、激しいゲリラによる抵抗に苦戦しながら、1902年までに征服を完了した。その後、1910年にはケープ植民地とともに、イギリス帝国内の自治国としての南アフリカ連邦の一州とされた。参考 ガンディーのトランスヴァール大行進
南アフリカでインド人移民の人権保護に取り組んでいたガンディーは、1906年、当時はイギリス直轄領でスマッツ提督が治めるトランスヴァール現地政府が、アジア人登録法を強制したことに対して、非暴力・不服従によって抵抗を開始し、それをサティヤーグラハと名付けた。