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トランスヴァール共和国

南アフリカのケープ植民地から北上したブール人が1852年に建てた国。南ア戦争(1899~1902年)でイギリスに征服され、南アフリカ連邦の一州とされる。

 16世紀に南アフリカのケープ植民地に入植したオランダ人の子孫であるブール人は、その地がウィーン議定書でイギリス領になってイギリス人が入植するようになったため圧迫されるようになった。1830年代後半、彼らブール人は新たな天地を求めて北方に大移動を開始、いわゆるグレート=トレックをおこなった。その中の一隊は途中、アフリカ現地のズールー人の抵抗を排撃して、1839年にナタール共和国をつくった。しかしイギリスはそれを認めず、1842年に攻撃してそれを滅ぼした。ナタールを脱出したブール人は他の集団と合同しながら北上し、ヴァール川の向こう岸に定着して、1852年にトランスヴァール共和国を建国し首都プレトリアを建設した。ヴァール川の向こう側という意味である。またブール人の別な一隊はオレンジ川を超えたところに1854年にオレンジ自由国を樹立した。

イギリスに併合される

 イギリスは1870年代に入り、帝国主義的な膨張策を採るようになると、ブール人がケープ植民地の北方に独立した国家をつくることは、ケープとカイロを結ぶいわゆるアフリカ縦断政策の障害になると考えていたが、さらに1867年にオレンジ自由国でダイヤモンド鉱が発見されたこともあってこの二国の併合を策し、まず1877年に軍隊をプレトリアに派遣し、トランスヴァール共和国の大統領を脅迫・買収して強引に併合を宣言した。それに対してトランスヴァール共和国では副大統領クリューガーが中心になって併合を拒否し、反対運動を展開した。

第1次ブール戦争

 イギリスはトランスヴァール共和国を併合したものの、隣接するズールー人との戦争(1879年からのズールー戦争)に手を焼き、苦境に立っていた。その情勢を利用し、トランスヴァール共和国独立を掲げるクリューガーらが、オレンジ自由国の支援を受けて、1880年に挙兵した。戦いは現地を知っているトランスヴァール軍が優勢に進め、1881年2月にはマジュバの戦いで勝利を占めた。イギリスでもグラッドストーンの自由党内閣が成立、トランスヴァール仮政府との間で8月にプレトリア協定を結び講和した。4月にはディズレーリが死去していた。プレトリア協定はトランスヴァールに自治権を与えるものの、イギリスの主権も盛り込んでおり、完全独立を目指す側からは不満であり、またイギリス国内の植民地主義者に自治権付与は不満であったので、解釈次第で評価が分かれ、とりあえず戦闘を終わらせたにすぎなかった。

南アフリカ戦争(第2次ブール戦争)

 オレンジ自由国のダイヤモンドにつづき、1886年にトランスヴァールのウィットウォータースラントで金鉱が発見された。ブール人の勢力拡大を恐れたイギリスは、ダイヤモンドや金鉱の鉱山経営者として勢力のあったセシル=ローズを1890年にケープ植民地首相に任命して、トランスヴァールの北方の中央アフリカ(後のローデシア)を征服し、南北からトランスヴァールを圧迫した。さらにセシル=ローズは、1895年にトランスヴァール政府を転覆させる陰謀をたくらんだが、それには失敗した。ついにケープ植民地政府は、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国のブール人の二つの国家に対する征服戦争である南アフリカ戦争(ボーア戦争)を開始し、激しいゲリラによる抵抗に苦戦しながら、1902年までに征服を完了した。その後、1910年にはケープ植民地とともに、イギリス帝国内の自治国としての南アフリカ連邦の一州とされた。
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書籍案内

岡倉登志
『ボーア戦争―金とダイヤと帝国主義』
1980年 教育社歴史新書―西洋史