ナタール
南アフリカでブール人が1839年にナタール共和国を立てる。1842年にイギリスに征服され、後に南アフリカ連邦の一州となる。
ケープ植民地のオランダ系入植者であったブール人が、その地がイギリス領になった1814年以来、イギリス人に圧迫されるようになり、それをさけて1830年代後半から北方に土地を求めて移動するいわゆるグレート=トレックを開始した。その指導者の一人、レティーフに率いられた一隊は、現地のアフリカ人で強大な勢力を有していたズールー人の部族と衝突した。レティーフはズールー人との戦いで戦死したが、つづくプレトリウスは、1838年に「血の河の戦い」でズールー軍を破り、翌1839年にナタール共和国を建国した。
イギリス植民地となる
このようなブール人の動きに警戒を強めたイギリスは、1842年にナタール共和国を攻め、それを滅ぼし、イギリス植民地とした。ナタールから逃れたブール人はその後もイギリス軍と戦いながら移動し、その一部はトランスヴァール共和国(1852年)を、一部はオレンジ自由国(1854年)を建国した。イギリスは、いわゆるアフリカ縦断政策を推進するためこの二国も征服しようとして、1899年からの南アフリカ戦争を開始、02年までに征服を完了し、1910年にこれらをケープ植民地とともに南アフリカ連邦に組み入れた。このとき、ナタールもその一州となった。ガンディーの活動
ガンディーは1893年にアフリカに渡り、ナタールのダーバンで弁護士業を開業、インド人移民の人権の保護に立ち上がり、ナタール=インド人会議を発足させ、1906年に外国人登録証を集団で焼き払うなどの非暴力・不服従運動を開始した。缶ディーはそれをサティヤーグラハと名付けた。1907年には『ヒンドゥー=スワラージ』でその理念と戦術を広く公表し、インドでも知られるようになった。彼は南アフリカ戦争と、続いて起こったズールー戦争でも戦場に赴き、負傷兵を救援する活動を行った後、1915年にインドに帰り、本格的なインドの反英闘争を開始するが、ナタールはその活動の原点となった所だった。