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ブール人/ボーア人/アフリカーナー

17世紀に南アフリカのケープ植民地に入植したオランダ系白人のこと。19世紀中頃、イギリスの侵略に押されて、北上し、アフリカ人を排除、征服してトランスヴァール共和国、オレンジ自由国などを建国。その地でダイアモンド、金が発見されたことからイギリスがさらに侵略を続け、南アフリカ戦争となり、ブール人は敗れてイギリスの支配下にはいる。

 ブール人のブール Boer はオランダ語で「農民」を意味する。また「アフリカ生まれ」という意味のオランダ語でアフリカーナーともいわれた。南アフリカの白人は、1652年にインド方面への中継地として建設されたケープ植民地に入植したオランダ人の子孫が主であった。1689年にはナントの王令の廃止(1685年)によってフランスから200人のユグノーが移住し、小麦・ブドウの栽培などを行った。1814年にウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領になると、イギリス人の入植が増大し、ブール人は次第に圧迫されて北方に移住していった。この移住を、彼らはグレート=トレックといっており、1839年にナタール共和国、1852年トランスヴァール共和国、1854年オレンジ自由国を建設した。

グレート=トレック

 グレート=トレック(Great Trek)とは、1830年代後半から40年代初めまでにケープ植民地のオランダ系入植者(ブール人、ボーア人)が、イギリスによる支配をきらい、その手の届かない自由の天地を求めて、北へ北へと向かった、集団的な大移動のことをいう。彼らは、そのつど100~300人の一団を組み、幌馬車を連ねてケープを脱出した。その総数は、彼らと行動をともにしたコイコイ人、黒人奴隷を含めて約1万人前後にのぼったという。
 グレート=トレックが及んでいった土地はアフリカ現地人が農耕や牧畜に従事する、アフリカ人の土地であった。ブール人の侵入に対して激しく抵抗するズールー人などとの戦いが繰り返された。ポトヒーターに率いられた一隊は、途中でンデレベ人と戦いながらオレンジ川の彼方に新天地を見つけた。またレティーフは、ズールー人との戦いに敗れたが、その後に続いたプレトリウスは「血の川の戦い」(1838)でズールー人を破り、1839年にナタール共和国を建設した。
 これらの動きを警戒したイギリスは、1842年にナタール共和国を攻撃し、それを滅ぼした。このため多数のブール人がナタールを脱出し、オレンジ川彼方の仲閒と合流してイギリスと戦いながら、 1852年トランスヴァール共和国、1854年オレンジ自由国を建設した。<宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.366-368>
奴隷制廃止とグレートトレック ブール人はイギリスの支配から逃れ“自由を求めて”グレート=トレックを開始した。その自由とは何であったか。それは、“黒人を奴隷として使役する自由”であった。1833年、イギリス本国で成立した奴隷制度廃止は植民地にも及ぶものであったから、ケープ植民地でも適用された。それに対してブール人は入植以来黒人を奴隷として大農園を経営していたので、強く反発した。それが彼らが、“奴隷たちと一緒に”新天地を求めた理由であった。

Episode 車陣戦術と「血の河の戦い」

 グレート=トレックを行った人々、トレッカーズが移動していったさきは、無人の地ではなく、アフリカ人がすでに居住していたところだった。ブール人の力の行使はアフリカ人にとっては国土の征服、占領、そして民族的抑圧を意味していた。
(引用)(ボーア人は1838年)12月16日に有名な「血の河の戦い」で古典的な車陣戦術(南アフリカの河岸における戦闘でしばしば用いられた、幌付きの車両を川沿いに並べて防壁を築く戦術)を用いてズール族を打ち破った。この戦闘でボーア側は、三人の負傷者を出したのみであったが、ズール側は、約三〇〇〇人が殺された。「血の河の戦い」という呼び名は、このズール側の遺棄死体の血が河を染めたことに由来するものである。<岡倉登志『ボーア戦争』1980 教育社歴史新書 p.27>

イギリスの侵略との戦い

 1860年代にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国にダイヤモンド鉱山が発見され、さらに1884年にトランスヴァール共和国のヨハネスブルクで金鉱が発見されると、ケープ植民地を拠点としてアフリカ縦断政策をとるイギリス人が北上し、ブール人と激しく対立するようになった。植民地首相セシル=ローズの強引な侵略は本国からも非難されたため1896年に失脚したが、本国の植民地相ジョゼフ=チェンバレン1899年にブール人との南アフリカ戦争(ブール戦争)に踏み切った。両国のブール人は激しく抵抗し、イギリス政府の短期収束の予想を遙かに超え、戦闘を継続させたが、1902年までについにイギリス軍に敗北した。
ブールかボーアか アフリカ南部に入植した白人はアフリカーナとも言われるが、その中のオランダ人は農民を意味する Boer をオランダ式発音でブールと自ら称していた。彼らは農民の子孫であることを誇りにしており、オランダ東インド会社の使用人と区別して自らをブール人と呼んでいたのだった。それをボーアというのはイギリス式の発音なので、ブール人自身は嫌っていた。日本でもかつてはイギリス式にボーア人(またはブーア人)とか、ボーア(ブーア)戦争と言われていたが、現在では彼ら自らが用いていたブールというようになっている。やはり蔑称の響きがあるボーアやブーアより、ブールと表記するのが正しいと思われる。しかし、日本の世界史理解はイギリスの立場に立つ伝統が強いからか、現在でもボーアという表記が使われることもあるが、現行の教科書でボーア人という用語を残しているのは1社(帝国書院)のみとなっている。なお、最近ではブール人よりも彼らの自称である「アフリカーナー」が広く使われるようになっている。

南アフリカ連邦の成立

 イギリスは征服戦争の勝利後はブール人との融和に努め、旧トランスヴァール共和国と旧オレンジ自由国にも一定の自治を与えた。その後、イギリス本国は白人主体の植民地には自治権を認めるようになり、1910年にはこの二国とケープ植民地・旧ナタール共和国の4つの自治領を合わせて南アフリカ連邦として一つの自治領を構成することとなった。

アパルトヘイトの始まり

 南アフリカ連邦が成立し、トランスヴァールもオレンジもその州に組み込まれたことによってボーア人もイギリス国王を元首としていただく自治領国家の一員となった。そしてイギリス人などと同じ白人支配者となった。彼らはグレート=トレックの歴史を忘れることなく、自分たちこそが南アフリカの基礎をつくったのだという自負を棄てなかったが、同時に現地の黒人に対する優越感も持ち続けた。南アフリカ連邦の成立と同時に、白人の優越を定めた法律が制定され、後の悪名高いアパルトヘイトは、このブール人の黒人に対する差別感、蔑視意識が継承されたものであった。ブール人は南アフリカ戦争ではイギリス人に敗れたのだったが、アフリカ人に対しては征服者、支配者であったことを忘れてはならない。

アフリカーナーとアフリカーンス語

 彼らブール人は、「アフリカ生まれ」という意味のオランダ語で、アフリカーナーとも言う。彼らは次第にオランダ語に英語とアフリカの現地語であるコイサン語などが混じった混合言語であるアフリカーンス語を話すようになり、イギリスに征服されてからも南アフリカ連邦の英語と並ぶ公用語とされた。