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戊戌の政変

1898年、戊戌の変法を進めていた康有為ら改革派を保守派の西太后が弾圧した事件。

 1898年9月、清朝の光緒帝のもとで戊戌の変法と言われた近代化路線を進めようとした康有為ら革新的官僚が、宮廷の保守派西太后によって弾圧されたクーデタ事件。
 1898年4月に始まった戊戌の変法を推進しようとした光緒帝らは、保守派の中心人物西太后をその離宮である頤和園に幽閉しようと計画し、実力者袁世凱に協力を求めたが、袁世凱は逆にクーデタ計画を西太后側に密告したため、光緒帝は逮捕されて幽閉されてしまった。また維新派(改革派)官僚も弾圧され、首謀者として譚嗣同は処刑され、康有為梁啓超は逃亡して日本に亡命した。

戊戌の政変後の清朝

 戊戌の政変で改革派を葬った西太后は体制の維持に成功、保守派の官僚や宦官勢力を従え、権力の独占を図った。しかし、日清戦後の列強による中国分割が同じ時期に激しくなるとともに、清朝の統治の矛盾が表面化し、各地で反キリスト教運動である仇教運動が頻発するようになって、ついに反キリスト教、反西洋を掲げる最大の勢力義和団1900年に勃発した。
 西太后は一時北京から逃れるなどの危機に陥ったが、外国軍によって義和団は鎮圧され、清朝は北京議定書を締結するなど、列強に屈することとなった。その後の東アジア情勢は日本とロシアの対立を軸に進み、清朝は内外ともにその権威を失って行く中でうえからの改革である光緒新政が失敗に終わり、国内での革命運動が台頭して1911年10月、孫文が主導権を握り辛亥革命が始まって清朝は倒壊に向かう。

西太后、戊戌の政変を語る

 1904年~5年に西太后に仕えた女官である徳齢が手記を残しており、西太后の肉声を聞く(文字のうえでだが)ことができる。そこで西太后は康有為への恨み言とともに、戊戌の政変の顛末をこんな風に語っている。英字新聞を翻訳して西太后に伝える役目を持っていた徳齢が、ある朝、読んだ中に康有為がシンガポールに到着したという記事があった。そのとき西太后は激しく興奮し、この康有為こそ、光緒帝に変法どころかキリスト教の移入まで吹き込んで、その後のあらゆる騒動を惹き起こした奴だといって罵り、次のように語った。
(引用)この男は、変法を実行に移すまでまで私を監禁しておこうというので、万寿山(頤和園の西太后の別荘)を軍隊で取り囲む勅令を皇帝に出させようとまでしたのでしたが、軍機処の一員の栄禄と直隷総督の袁世凱との忠義のお蔭で、私はこの陰謀をうち破ることができました。私はただちに当時皇帝が住んでいらっしゃった紫禁城に出かけて、皇帝にこの問題を詰(なじ)りますと、皇帝は自らの誤りを悟られましたから、私に政権を執って、自分の代わりに治めてもらいたいとお頼みになったのです。<徳齢/太田七郎・田中克己訳『西太后に侍して――紫禁城の二年間』2023 講談社学術文庫 p.390>
 西太后は康有為が逮捕を逃れた後の動向を常に気にしていたらしく、なぜ外国はこのような支那の政治的先導者の罪人に保護を与えるのだ、と怒りが収まらない風だったという。
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徳齢
太田七郎・田中克己訳
『西太后に侍して――紫禁城の二年間』
2023 講談社学術文庫