仇教運動/教案
19世紀後半、中国の民衆の中に興った反キリスト教運動。各地で教会焼き討ち、外国人殺害などが起こり、1900年の義和団の蜂起につながった。
きゅうきょううんどう 中国の雍正帝の時の1723年にキリスト教の布教禁止がなされたが、中国におけるキリスト教は、宣教師の密航もあって、消滅すること無く民衆の中に続いていた。清朝末期になると社会に不満を持つ層の支持を受けて1851年に太平天国の乱が起こった。太平天国の乱の続く中、アロー戦争が勃発、その講和条約として1858年に天津条約が結ばれ、公式にキリスト教布教の再開が認められた。清朝政府がその批准を拒否したことから、イギリス・フランスは北京に侵攻して破壊するなど圧力を加え、1860年に北京条約を締結して、キリスト教布教の自由を明文化した。それによって、以後カトリックとプロテスタントの両派とも積極的な中国での布教を展開するようになった。
仇教運動の背景 権力側のキリスト教排斥ではなく、民衆の中から興った反キリスト教運動がなぜ広がったのだろうか。1858年の天津条約で内地布教権を認められたキリスト教の布教活動は、外国人宣教師によって担われ、彼らは教育や医療の分野でも近代文明の伝達者として中国社会へと溶け込み、多くの信者を獲得した。キリスト教信仰に入った中国人には下層民が多く、中には差別されていた客家や、弾圧されていた白蓮教徒などもいた。中には家ぐるみ、村ぐるみで入信し、1870年代に起こった飢饉では教会は盛んに慈善事業を行いその勢力を伸ばした。
その一方で、キリスト教が公認されると宣教師たちは清初の禁教以前のカトリック教会の財産の返還を要求し、中国人信者の抱える訴訟に介入して有利な判決が出るよう、地方官に大使館を通じて外交的な圧力をかけた。このような外交特権を利用した宣教師の信者支援を目当てに信者となるものが増えるとともに、中国人の反感を買うようになった。中国人には、清朝の統治機構とキリスト教会が二重の権力と見られるようになり、それに加えて儒教文化を正当と見なす科挙エリートのヨーロッパ文明に対する拒否反応や、もともと社会的劣位にあった中国人信者への差別意識が加わり、仇教案(あるいは教案)とよばれる反キリスト教事件が続発した。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005 講談社 p.110-112>
また続けてこうも言っている。長いが西太后の言い分を聞いてみよう。
中国民衆の反キリスト教運動
天津条約で公認されてからの中国でのキリスト教はヨーロッパ諸国の力を背景にした特権的な存在であり、その布教活動も治外法権によって守られている存在であったので、外国人宣教師および外国人一般に対する反感がかえって次第に強くなった。キリスト教の教えが儒教的な秩序を脅かすととらえた地方のエリート層である郷紳の中には民衆を扇動して教会や宣教師を襲撃する事件(これを教案という)を起こすことが多くなってきた。仇教運動の背景 権力側のキリスト教排斥ではなく、民衆の中から興った反キリスト教運動がなぜ広がったのだろうか。1858年の天津条約で内地布教権を認められたキリスト教の布教活動は、外国人宣教師によって担われ、彼らは教育や医療の分野でも近代文明の伝達者として中国社会へと溶け込み、多くの信者を獲得した。キリスト教信仰に入った中国人には下層民が多く、中には差別されていた客家や、弾圧されていた白蓮教徒などもいた。中には家ぐるみ、村ぐるみで入信し、1870年代に起こった飢饉では教会は盛んに慈善事業を行いその勢力を伸ばした。
その一方で、キリスト教が公認されると宣教師たちは清初の禁教以前のカトリック教会の財産の返還を要求し、中国人信者の抱える訴訟に介入して有利な判決が出るよう、地方官に大使館を通じて外交的な圧力をかけた。このような外交特権を利用した宣教師の信者支援を目当てに信者となるものが増えるとともに、中国人の反感を買うようになった。中国人には、清朝の統治機構とキリスト教会が二重の権力と見られるようになり、それに加えて儒教文化を正当と見なす科挙エリートのヨーロッパ文明に対する拒否反応や、もともと社会的劣位にあった中国人信者への差別意識が加わり、仇教案(あるいは教案)とよばれる反キリスト教事件が続発した。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005 講談社 p.110-112>
天津教案
多くの教案事件(キリスト教会襲撃事件)は民衆の中に広がったデマによって起こった。民衆の中にはキリスト教会が建てられたために雨が降らないとか、教会の孤児院では子供の肝臓を取り出して薬を作っているなどの噂されていた。1870年に発生した天津教案もその一例で、子供を誘拐したという疑惑から群衆がカトリック教会を取り囲み、発砲したフランス領事のフォンタニールら24名を殺害した。これに対してフランスは軍艦を天津沖に派遣し地方官の処罰を求めるなど強硬な姿勢でのぞんだ。清朝政府は謝罪使を送る一方で、直隷総督曾国藩を事件の処理に当たらせた。曾国藩は事件に関係の無い消防団員を処刑して外国人の責任を追及しなかったので人々はかえって憤激させた。その後は仇教事件は科挙エリート主導から離れ、1891年の長江教案のように哥老会などの秘密結社が関与するようになった。<菊池秀明『同上書』 p.113>義和団の蜂起へ
そのような中で仏教系の民間信仰である白蓮教の流れをくむ義和団が、山東省で活発に活動するようになった。白蓮教は厳しい弾圧によって次第に姿を変え、拳と棒を使って体を鍛え、呪文を唱えて護符を飲むことで不死身の身体を得られるという義和拳とも呼ばれる団体となっていた。彼らはキリスト教を排斥しようとして教会を襲撃するようになった。1897年、彼らが山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件がおこると、それを口実にしたドイツが膠州湾を占領、列強による中国分割の口火を切った。義和拳と同じように、1899年には山東省西北部で朱紅灯というカリスマ的な指導者に率いられた神拳というと団体が反教会の闘争に立ち上がった。朱紅灯は捕らえられて殺されたが、同年末に義和拳と神拳が合体して義和団が誕生した。清朝内部にも義和団に同調するものも多く、その弾圧は不徹底だったので、西欧列強は危機感を募らせる中、義和団はキリスト教排斥を掲げて北京をめがけて進撃、1900年に北京を占領した。清朝政府もそれに押されて諸外国に宣戦布告して義和団事件(北清事変)となった。Episode 西太后のキリスト教嫌い
1903年~05年の間の約二年間、西太后の側で女官として仕え、信頼の篤かった徳齢という女性が1911年にアメリカで発表した『西太后に侍して――紫禁城の二年間』という本に、西太后のこんな生の声が伝えられている。(引用)……光緒26年(1900年)の義和団の際、米国が宮城での行いが良かったことは私も有難く思いますが、そうかといって、私は宣教師を好きだと言うわけには行きませんね。李蓮英(宮中を取り仕切る宦官のトップ)の話によると、此処にいる、あの宣教師たちは、支那人にある薬をやるそうですね。そうすると支那人は基督教徒になりたがると。それから宣教師たちは、支那人の意思に反して自分たちの宗教に帰依させるように強制はしたくないのだから、改宗のことは充分とっくりと考えなさいと支那人に言うような振りをするのだということですね。宣教師たちはまた貧乏な支那の子供たちを連れ去って、眼玉をくぐりだして、それを何か薬に使うそうじゃありませんか。<徳齢/太田七郎・田中克己訳『西太后に侍して――紫禁城の二年間』2023 講談社学術文庫 p.196>これを聞いた徳齢は外交官の父についてパリで生活したこともある女性だったので、本当は宣教師は生まれながら盲目の子供たちを教会で養い助けていたのですと話すと、西太后は笑いながら「もちろん、私もあなたの言うことを信用しますけれど、あの宣教師たちはなぜ自分たちの国にいて、自分たちの国民のために尽くさないんでしょうね?」と言った。
また続けてこうも言っている。長いが西太后の言い分を聞いてみよう。
(引用)宣教師たちが貧民を助け、その苦労を救うというのは結構なことです。たとえば、私たちの崇めまつる如来仏がわが身の肉で餓えた鳥を養われたようなものです。でもあの人達が私の人民たちをほっといてくれれば、私も好きになるでしょうに。私たちは私たち自身の宗教を信じればよいのです。あなたは、どうして拳匪(義和団)の乱が起こったか知っていますか? それは勿論、支那人の基督教徒のせいですよ。拳匪たちは、あの基督教徒たちに酷いことをされたので、仕返しをしようとしたんですよ。基督教徒はやり過ぎたし、同時に、北京のあらゆる家に火をつけて金を取ろうと思ったんです。誰の家なんて差別しませんでした。金の取れる間はいつまでも焼いていたいと思ったんです。この支那人の基督教徒ぐらい支那で悪い人間はありませんよ。貧乏な百姓から土地や財産を奪う。それに宣教師は、勿論、いつもその分前に与ろうというので、それを保護するのです。支那人の基督教徒は知事の衙門(役所)に連れて来られても、他の者のように、地面に跪いて支那の法律に遵うことなどしなくてもよいと考えていますし、それにいつも自分の国の政府の役人にひどく無礼なのです。すると、この宣教師は、この男が悪かろうと善かろうと、これを保護するのに全力を尽くし、この男の言うことは何でも信用して、知事に迫ってこの囚人を放免させてしまうのです。…………<徳齢『前掲書』 p.198-199>西太后は、義和団の動乱の原因を宣教師とキリスト教信者の側にあるとして、みずからが義和団を認めて手を結んだことの弁明をしている。西太后は続けて義和団を認めたことや北京を脱出したことは本意では無かった、とも語っている。ここでは、1904年の段階になっても、西太后の中に強固な反キリスト教の信念があったことを見ておこう。 → 西太后の項を参照