義和団/義和団事件/義和団戦争
1900年、中国で起こった反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。清朝(西太后)は当初鎮圧を図ったが、北京を占領されるにおよんで支持に転じ、列強に宣戦布告した。しかし英米仏露日など8ヵ国連合軍が北京を奪回し、列強の帝国主義的中国分割が進んだ。
19世紀末、帝国主義列強による中国分割が進んだことで、中国民衆の中から外国文明に対する拒否反応が強まるなか、1899年10月頃、山東省で義和団 という民間宗教団体が武装蜂起した。義和団は「扶清滅洋」をかかげて1900年4月には北京に入り、さらに北京・天津間などの鉄道を破壊するなど勢力を拡大させた。6月には清国兵も加わって外国公使らに危害を加えた。西太后ら清朝政府は義和団の蜂起に押されて1900年6月21日、列国に宣戦を布告した。これに対しイギリス、アメリカ、ロシアなど8カ国は連合軍を結成してたので、清朝と列国の戦争となったので義和団戦争という。日本も北京で日本公使が殺害されたことから、イギリスの要請を受けて連合軍に加わって出兵することに決した。7月には清朝政府は態度を変えて義和団を反乱軍としてその鎮圧に転じた。
8カ国連合軍は1900年8月14日に北京に侵攻、西太后ら清朝首脳は北京を脱出、9月には義和団弾圧を命じ、列国との講和に応じた。その結果、1901年9月7日、清朝政府は8カ国との北京議定書(心中条約)を締結し、賠償金支払いとともに北京と天津への外国軍隊の駐留権を認めた。
その結果、帝国主義列強による中国分割がさらに進んだ。アフリカにおける南ア戦争、ラテンアメリカ・フィリピンにおける米西戦争などと共に帝国主義による世界分割の一環であった。
義和団「戦争」 このできごとは、単なる民衆蜂起とその鎮圧ととらえられ、「義和団事件」といわれたり、日本政府は戦争という呼称を避けて「北清事変」と称したりであったが、列強と清国政府間の戦い、つまり「戦争」ととらえるのが正しく、最近の歴史総合の教科書などでも「義和団戦争」とされるようになった。
そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌1898年、膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。このような民衆の排外的・反キリスト教感情を煽動したのが、義和団といわれる一種の宗教秘密結社であった。この運動は華北一帯に広まり、各地でキリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こし、西欧列強と鋭く対峙するようになった。
・これに対し、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア=ハンガリー・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍 が共同で出兵、天津に上陸して北京に向かい、外交官や在留自国民を保護しようとしたが、義和団は清国兵とともに各地で鉄道を破壊するなど攻勢を強めた。ようやく1900年8月14日、連合軍は北京に入り、18日までに義和団を鎮定した。西太后は紫禁城を捨てて脱出、西方の西安に逃れた。8ヶ国の中で最も兵力の大きかったのが日本であり、イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったからである。
北京議定書では、4億5千万両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。
1894年に興中会を組織した孫文は、清朝内の改革派官僚に期待して、義和団事変にあわせて挙兵(恵州蜂起)したが、やはり鎮圧されてしまった。その後に誕生した光復会や華興会などの反清団体を結集し、1905年に孫文を総裁とする中国同盟会が組織され、これが辛亥革命による中華民国の成立を実現させ、そして袁世凱による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。
アジアの国際関係は緊迫の度合いを増した。それは義和団事変後もロシアが満洲などから撤兵しなかったことにより、ロシアの東アジア侵出を恐れた日本とイギリスが1902年に日英同盟を締結したことに現れている。しかしイギリスは当時、南アフリカ戦争の直後であったため自らは動けず、またアメリカもロシアを警戒していたがアギナルドらの指導するフィリピン共和国とのフィリピン=アメリカ戦争を戦っていたため介入できず、日本は単独でロシアと戦うこととなり、1904年に日露戦争の勃発となる。
8カ国連合軍は1900年8月14日に北京に侵攻、西太后ら清朝首脳は北京を脱出、9月には義和団弾圧を命じ、列国との講和に応じた。その結果、1901年9月7日、清朝政府は8カ国との北京議定書(心中条約)を締結し、賠償金支払いとともに北京と天津への外国軍隊の駐留権を認めた。
その結果、帝国主義列強による中国分割がさらに進んだ。アフリカにおける南ア戦争、ラテンアメリカ・フィリピンにおける米西戦争などと共に帝国主義による世界分割の一環であった。
義和団「戦争」 このできごとは、単なる民衆蜂起とその鎮圧ととらえられ、「義和団事件」といわれたり、日本政府は戦争という呼称を避けて「北清事変」と称したりであったが、列強と清国政府間の戦い、つまり「戦争」ととらえるのが正しく、最近の歴史総合の教科書などでも「義和団戦争」とされるようになった。
19世紀末、中国分割の危機
日清戦争の敗北をうけて、清朝内部で始まった康有為等の戊戌の変法はあくまで体制の上からの改革であり、一般民衆にはほとんど理解されていなかった。民衆はむしろ、帝国主義列強による侵略に対して本能的に反発し、西洋文明を拒否する動きを示した。西洋の医療は幼児の目をくりぬいて薬を作っているとか、鉄道や汽船は怪異なものであり、電信柱があるから雨が降らないのだなどと信じ、またキリスト教徒が祖先の祭をしないことに伝統を壊すものという不快感を持った。そのような反西洋文明、反キリスト教の運動を仇教運動ともいう。そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌1898年、膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。このような民衆の排外的・反キリスト教感情を煽動したのが、義和団といわれる一種の宗教秘密結社であった。この運動は華北一帯に広まり、各地でキリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こし、西欧列強と鋭く対峙するようになった。
義和団とは
義和団は、かつての白蓮教の流れをくみ、義和拳という拳法によって刀や槍にも傷つけられない神力を得ることができると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となり、ついに1900年には北京に集結して蜂起し、義和団戦争となった。背景には、当時の華北の黄河流域で、たびたび洪水が起き、民衆生活に大きな犠牲が出ているにもかかわらず、清朝が無策であったことも挙げられる。義和団戦争の勃発
1899年10月、山東で蜂起した義和団は、1900年4月には北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。8ヶ国連合軍の北京出兵
義和団戦争で出兵した8カ国連合軍
左から、イギリス、アメリカ、ロシア、インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の兵士。9人いるのは、イギリス植民地のインド兵が動員されたため。
北京議定書の調印
北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年9月に北京議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。北京議定書では、4億5千万両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。
その後の中国とアジア情勢
西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる光緒新政を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができなっていった。1894年に興中会を組織した孫文は、清朝内の改革派官僚に期待して、義和団事変にあわせて挙兵(恵州蜂起)したが、やはり鎮圧されてしまった。その後に誕生した光復会や華興会などの反清団体を結集し、1905年に孫文を総裁とする中国同盟会が組織され、これが辛亥革命による中華民国の成立を実現させ、そして袁世凱による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。
アジアの国際関係は緊迫の度合いを増した。それは義和団事変後もロシアが満洲などから撤兵しなかったことにより、ロシアの東アジア侵出を恐れた日本とイギリスが1902年に日英同盟を締結したことに現れている。しかしイギリスは当時、南アフリカ戦争の直後であったため自らは動けず、またアメリカもロシアを警戒していたがアギナルドらの指導するフィリピン共和国とのフィリピン=アメリカ戦争を戦っていたため介入できず、日本は単独でロシアと戦うこととなり、1904年に日露戦争の勃発となる。