フランツ=フェルディナント
1914年6月、サライェヴォ事件で暗殺されオーストリア帝国の皇位継承者予定者。
一般にオーストリア帝国オーストリア=ハプスブルク家の皇太子とされるが、厳密には皇位(または帝位)継承予定者で大公の地位にあった。オーストリアは正式にはオーストリア=ハンガリー帝国で、皇帝の家系をとってハプスブルク帝国とも言われ、当時の皇帝はフランツ=ヨーゼフ1世であった。この皇帝には皇太子アドルフがいたが、自殺してしてしまったため、甥であったフェルディナントが皇位継承する予定者とされていた。
皇帝フランツ=ヨーゼフは1848年(ウィーン三月革命のとき)以来帝位にあり、プロイセンと厳しく対立していた経緯から、ロシアとは協調していく姿勢をもっていたが、その後継者フランツ=フェルディナントは熱心なパン=ゲルマン主義の支持者であり、また妻ゾフィーとの結婚を皇帝に反対されたことから、二人の関係は良くなかった。フランツ=フェルディナントが危険を承知で妻と共に敵意渦巻くボスニアを訪問したのには、皇帝に対する腹いせ的な思いもあったらしい。
オーストリアはセルビア人の犯行であることがわかると、ただちに宣戦を布告した。この事件の銃弾は二人の人間の死をもたらしただけでなく、遙かに超えて世界史の大事件、世界最初の世界大戦である第一次世界大戦勃発の引き金となった。
フランツ=フェルディナントとゾフィーの結婚の経緯は、江村洋『ハプスブルク家の女たち』1993 講談社現代新書 p.181~ 第7章 命をかけた「帝冠と結婚」に詳しい。
彼は好奇心旺盛であったらしく、日本で見たこと、経験したことを事細かに報告している。京都や奈良の古寺社、熊本城や名古屋城などの城郭の見物記だけでなく、長良川での鵜飼の体験など異文化への驚きを隠さない。箱根の宮の下温泉で宿泊したときは日本風の浴衣になって寛いだり、記念に入れ墨をするなど茶目っ気もみせている。その時の写真が講談社学術文庫版の『オーストリア皇太子の日本日記』に掲載されている。
また、日本の官憲が、この2年前の1891年にロシア皇太子(後のニコライ2世)が日本人警官に襲撃された大津事件があったので、異常に警備を厳重にしていたことも記録の随所に現れる。<フランツ=フェルディナント/安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』2005 講談社学術文庫>
フランツ=フェルディナントはサライェヴォ事件で銃弾にたおれ、ニコライ2世はロシア三月革命でボリシェヴィキによって殺害されるという、同じような運命をたどることになる。
皇帝フランツ=ヨーゼフは1848年(ウィーン三月革命のとき)以来帝位にあり、プロイセンと厳しく対立していた経緯から、ロシアとは協調していく姿勢をもっていたが、その後継者フランツ=フェルディナントは熱心なパン=ゲルマン主義の支持者であり、また妻ゾフィーとの結婚を皇帝に反対されたことから、二人の関係は良くなかった。フランツ=フェルディナントが危険を承知で妻と共に敵意渦巻くボスニアを訪問したのには、皇帝に対する腹いせ的な思いもあったらしい。
サライェヴォ事件に遭遇
フランツ=フェルディナントは、1914年6月、妻とともにボスニアの首都サライェヴォを公式訪問した。1908年以来、オーストリア=ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合していたため、その地のスラヴ系セルビア人住民の中に、強い反オーストリア感情があった。オーストリアとしてはパン=ゲルマン主義を掲げてバルカンに南下し、さらに地中海方面に出口を求めていたので、ボスニアに対する支配を強める必要があった。それがこの訪問の意味であったが、反発したセルビア人青年がこの夫妻を狙撃したのである。それが1914年6月28日のサライェヴォ事件であった。フランツ=フェルディナントと妃のソフィーはともにそれによって死んだ。時に51歳であった。オーストリアはセルビア人の犯行であることがわかると、ただちに宣戦を布告した。この事件の銃弾は二人の人間の死をもたらしただけでなく、遙かに超えて世界史の大事件、世界最初の世界大戦である第一次世界大戦勃発の引き金となった。
Episode 悲劇の結婚記念日
1914年6月28日はボスニアの首都サライェヴォで、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナントと妻ソフィーが暗殺され、第一次世界大戦の発端となった日であるが、この日は二人の結婚記念日でもあった。1900年のこの日、フランツ=フェルディナント大公は、伯爵令嬢ソフィー=コテックと結婚したが、「それは、沈みがちな、悲しい婚礼であった」。大公はハプスブルク家の後継者であり、やがてオーストリア皇帝・ハンガリー王となるべき人であったが、ソフィーは平凡な伯爵令嬢にすぎず、ハプスブルク家の婚姻としては許されないものであった(ハプスブルク家はそれまで外国の王女クラスを皇后として迎えるという婚姻政策でヨーロッパ随一の勢力にのし上がってきたのだった)。そのため、ソフィーは宮廷の公式行事には出席できなかった。しかし、大公は妻を深く愛していた。彼が妻を公式行事に同道できるのは、陸軍元帥として軍隊の観閲をするときだけだった。ボスニアでの閲兵式に妻を同行し、オープンカーに乗せたのは、ソフィーに皇位継承者夫人としての栄耀を楽しんでもらう唯一の機会だった。そして、その日が結婚記念日であった。「大公は、愛すればこそ死に赴いたのである。」<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』1963 新評論 P.11-12 などを参照>フランツ=フェルディナントとゾフィーの結婚の経緯は、江村洋『ハプスブルク家の女たち』1993 講談社現代新書 p.181~ 第7章 命をかけた「帝冠と結婚」に詳しい。
参考 フランツ=フェルディナントの日本旅行
サライェヴォ事件の21年前、1893(明治26)年の夏、フランツ=フェルディナントは日本を公式訪問、その旅行記を残している。彼はオーストリア海軍のエリーザベト皇后号に乗艦し、1892年12月25日に当時はハプスブルク帝国の海港であったトリエステを出航、スエズ運河を抜けてセイロンに寄港してからインドに上陸、ヒマラヤ山麓で虎や象の狩猟を楽しみ、カルカッタ、シンガポールを経てオーストラリアのシドニーに上陸。しばらく内陸を旅行した後、シドニーからソロモン諸島、ニューギニア、ボルネオを経て香港・広東に至り、8月2日に長崎に入港した。日本での彼の行程は熊本、門司、神戸、京都、奈良、岐阜、名古屋、箱根、横浜、東京、日光に及んでいる。8月17日には東京で明治天皇に謁見している。彼は好奇心旺盛であったらしく、日本で見たこと、経験したことを事細かに報告している。京都や奈良の古寺社、熊本城や名古屋城などの城郭の見物記だけでなく、長良川での鵜飼の体験など異文化への驚きを隠さない。箱根の宮の下温泉で宿泊したときは日本風の浴衣になって寛いだり、記念に入れ墨をするなど茶目っ気もみせている。その時の写真が講談社学術文庫版の『オーストリア皇太子の日本日記』に掲載されている
また、日本の官憲が、この2年前の1891年にロシア皇太子(後のニコライ2世)が日本人警官に襲撃された大津事件があったので、異常に警備を厳重にしていたことも記録の随所に現れる。<フランツ=フェルディナント/安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』2005 講談社学術文庫>
フランツ=フェルディナントはサライェヴォ事件で銃弾にたおれ、ニコライ2世はロシア三月革命でボリシェヴィキによって殺害されるという、同じような運命をたどることになる。