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ハプスブルク帝国

13世紀に成立したハプスブルク家領のオーストリアに始まり、16世紀にはヨーロッパ各地に領域を広げて最大となり、次いでドナウ中流域のヨーロッパ中央(中欧)を支配する多民族国家となるに至った。さらに1806年の神聖ローマ帝国解体後のオーストリア帝国、1866年の普墺戦争敗北後のオーストリア=ハプスブルク二重帝国もハプスブルク帝国と呼ぶ。つまり、第一次世界大戦によって1918年に消滅するまでに至るハプスブルク家の支配した国家の総称をハプスブルク帝国と言っている。

ハプスブルク帝国の概要

 ハプスブルク家の家領としてのオーストリアは13世紀に始まり、積極的な婚姻政策で、15世紀までにスペイン・ネーデルラントに広がった。その支配地はヨーロッパ各地域に及び、フランスのヴァロワ家、ブルボン家と対抗するようになった。16世紀のカール5世の時、その領域は最大となり、1529年にはオスマン帝国の第1次ウィーン包囲を撃退して、ヨーロッパのキリスト教世界の防壁としての役割を担った。しかし、カール5世の晩年にハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系に分かれ、オーストリア=ハプスブルク家領がボヘミア・ハンガリーに及ぶようになった。このドナウ川中流の中部ヨーロッパ(中欧)に出現した多民族国家を実質的なハプスブルク帝国の成立と言うことができる。17世紀の三十年戦争で疲弊し、ウェストファリア条約によって領地を縮小したが、オーストリアを中心とした主権国家複合体としての形態をとるようになった。1683年のオスマン帝国の第2次ウィーン包囲を撃退したことを機にバルカン半島に領土を拡張し、大国となっていった。18世紀にはスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などでプロイセン、フランス、ロシアなどヨーロッパの強国との関係を変化させながら抗争し、マリア=テレジア・ヨーゼフ2世のもとで近代国家への脱皮を図った。ナポレオン戦争によって1805年に神聖ローマ帝国が最終的に解体すると、オーストリア帝国と称するようになった。ウィーン体制時代には宰相メッテルニヒのもとでヨーロッパの反動体制の中心と位置づけられた。しかし、そのころから多民族国家としての矛盾が深刻となり、領内のハンガリー人やチェコ人、イタリア人などが激しい民族運動を起こすようになり、動揺が続いた。1866年に普墺戦争に敗れたことにより、オーストリア=ハンガリー二重帝国という形態をとることとなり、なおもチェコ、ハンガリー、北イタリアなどの支配を維持した。同時に汎ゲルマン主義を掲げた帝国と、汎スラヴ主義をかかげるロシアとがバルカン半島において衝突したことから、第一次世界大戦が勃発することとなり、その戦争に敗北した結果、1918年にハプスブルク家の皇帝が退位し、ハプスブルク帝国は終わりを告げた。 → オーストリア  ハプスブルク家  神聖ローマ帝国
参考 「ハプスブルク君主国」の提唱 一般に「ハプスブルク帝国」という言い方が行われているが、岩﨑周一氏の近刊『ハプスブルク帝国』では、ハプスブルク家の君主により統治されていた国家を「ハプスブルク君主国」と呼称している。それによって、神聖ローマ帝国からオーストリア帝国に至る1000年に及ぶ時間軸と、ヨーロッパ大陸から新大陸に及ぶ空間軸を持つハプスブルク家支配の歴史を概観すること試みている。世界史学習で判りづらいところであるので参考になる。<岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p.5>
 また同書は、ハプスブルク君主国において君主と民衆の間に存在する「諸身分」の存在に注目している。諸身分(シュテンデ)とは等族ともいい、高位聖職者、貴族、都市と言った中間的政治団体(社団/中間団体)にあたり、皇帝・国王・諸侯はこの諸身分の合意を取り付けることで安定した支配が可能となる。諸身分の合議機関が身分制議会になっていくのであり、イギリスのマグナ=カルタにみる国王と貴族の関係と基本的に同じものと指摘している。<岩﨑周一『同上書』p.5、p.45-50>

(1)ハプスブルク帝国の成立

 ハプスブルク家は、スイスの小領主から頭角を現し、ドイツ有数の領邦としてのオーストリアを領有し、13世紀に神聖ローマ皇帝(ドイツ王)となった家系。皇帝位は選挙王制であったが、15世紀のアルブレヒト2世(在位1438~39)・フリードリヒ3世(在位1440~93)以降は皇帝位に連続して選ばれて事実上世襲、独占し、1806年まで皇帝位を継続する(オーストリア継承戦争の時を除いて)。この間、15世紀末~16世紀初めマクシミリアン1世(在位1493~1519)が、積極的な婚姻政策を展開、その結果、次の代までにハプスブルケの家領がネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)、スペイン、南イタリア(ナポリ、シチリア)、ハンガリー、ボヘミアに及ぶ空前の領土をヨーロッパ大陸に持ったのみならず、スペイン領の新大陸やフィリピンなどの海外領土も支配した。

(2)帝国の全盛期

 16世紀前半のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の時がその最盛期であり、彼は神聖ローマ帝国皇帝としてフランスのヴァロア朝フランソワ1世との激しいイタリア戦争を展開した。一方、このころ西アジアに勢力を伸ばしたオスマン帝国がバルカン半島に侵出し、キリスト教世界の大きな脅威となっていたが、1529年の第1次ウィーン包囲を撃退することで、ハプスブルク帝国はキリスト教世界の守護者としての役割を担うこととなった。しかし、1538年のプレヴェザの海戦ではオスマン海軍に敗れ、地中海の制海権を失った。
(引用)カール5世の下に誕生したハプスブルク君主国とは、独自の法・制度・伝統を持つ何十もの諸国・諸侯が、同じ君主を戴くことによって成立する、同君連合国家であったのだ。この国家の統治において、諸国・諸邦の諸身分と交わした統治契約を守り、その国制を尊重することは絶対のルールであり、それらの大小強弱にかかわらず、決して侵害したり粗雑に扱ってはならなかった。その禁を破ることは、支配の正当性を失うことを意味したのである。いかに強大とはいえ、カールもまた事情は同じであった。・・・<岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p.94>
宗教改革始まる カール5世にとって最大の国内問題は、1517年に始まった宗教改革であった。カールは1521年、ヴォルムス帝国議会にルターを召喚し、ローマ教皇批判を撤回させようとしたが、ルターが動じないため、ヴォルムス勅令を出し、ルターを異端と断定した。しかし、ルター派の信仰は諸侯と農民に広がってゆき、ドイツは深刻な宗教対立の時代を迎える。
アメリカ新大陸の領有 カール5世はカルロス1世としてスペイン王家の持つアメリカ新大陸の領土をも継承した。カール5世の時、征服者としてコルテスピサロが中南米支配を進め、さらにマゼランの世界一周が行われた。

(3)ハプスブルク家の分裂

 カール5世の死後1556年以降は、ハプスブルクの家系は弟のフェルディナントの継承したオーストリア=ハプスブルク家と、子のフェリペ2世が継承したスペイン=ハプスブルク家の分かれることとなる。神聖ローマ皇帝位はオーストリア=ハプスブルク家が継承することとなり、フェルディナント1世が即位し、フェリペ2世はスペイン王となり、スペインの新大陸における植民地を継承し、さらに1580年にはポルトガルを併合して領土を広げ、「太陽のしずまぬ国」と言われた。このころがスペイン=ハプスブルク帝国の全盛期である。

(4)帝国の動揺

 宗教改革は神聖ローマ帝国内の諸侯にも宗教対立を持ち込み、帝国の動揺の要因となった。ハプスブルク家の皇帝は常にカトリック教会側の保護者として振る舞った。それに対する新教徒の不満も強まり、1618年にオーストリア=ハプスブルク家の支配下のベーメン(ボヘミア)での新教徒の反乱から始まった。この宗教戦争の最後にして最大となった三十年戦争(1618年から1648年)は、旧教国でありながらプロテスタントを支援して介入してきたフランス軍と戦った。戦争後のウェストファリア条約ではドイツ諸侯の自立が明確となり、ハプスブルク家もアルザスなどを放棄した。これによって神聖ローマ帝国は実質的に終わったが、形式上の神聖ローマ皇帝位は依然としてハプスブルク家が選出される形態が継続した。

(5)大国化とその苦悩

 三十年戦争は帝国にって深刻な危機であったが、その時期にはオスマン帝国が動かなかったことで救われたとも言える。17世紀後半、再びバルカンへの進出を企てたオスマン帝国は1683年に第2次ウィーン包囲を行った。ハプスブルクは再び危機に陥ったが、ポーランドからの援軍で何とか撃退した。その後は逆に攻勢を強め、ハプスブルク帝国軍はオスマン帝国軍を追撃して1699年のカルロヴィッツ条約ハンガリーを奪回するなど、大国化を実現した。
 スペイン=ハプスブルク家が断絶し、スペイン継承戦争(1701~14年)が起こるとではイギリス、オランダと同盟してフランスルイ14世と戦い、領土を拡張した。こうして「ハプスブルク帝国」はオーストリア=ハプスブルク家の所領の、オーストリア・ベーメン(ボヘミア)・ハンガリーに加えて北イタリア・南部ネーデルラントを支配することとなった(都はウィーン)。

(6)マリア=テレジアの時代

 オーストリア=ハプスブルク家はカール6世に男子が無く、断絶の危機となったが、1713年にプラグマティッシェ=ザンクティオンを定めて領土の不可分と女子の相続権を認め、1740年のマリア=テレジアの家督相続が認められた。それに異議を唱えたプロイセン王国のフリードリヒ2世との間でオーストリア継承戦争(1740~48年)を戦い、シュレジェンは失ったものの家督を相続し、オーストリア大公・ボヘミア王・ハンガリー王を兼ねることは承認された。マリア=テレジアはその後も外交革命で宿敵フランスのブルボン家とも手を結び、プロイセンと七年戦争(1756~63年)を戦った。

(8)多民族帝国の動揺

 18世紀中期以降のヨーロッパ絶対主義諸国と激しく抗争したが、その中でプロイセンに較べて国制や社会制度の遅れが明確になってきた。マリア=テレジアの子ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として農奴解放などの近代化をはかったが、帝国内の貴族層の反対で不徹底であった。
 また、多民族国家としてのハプスブルク帝国は、「主権国家」の形成、さらに「国民国家」へという大きな流れ、民族運動の高揚という動きの中で維持することは困難となっていった。

(9)オーストリア帝国へ

ナポレオンが1806年にライン同盟を結成すると、西南ドイツの16邦が神聖ローマ帝国からの脱退を表明したため、ハプスブルク家のフランツ2世は皇帝退位を表明し、名実共に神聖ローマ帝国が消滅した。ハプスブルク家当主はそのままオーストリア皇帝を称し、国号はオーストリア帝国となった。

(10)三月革命

 ナポレオン没落後のウィーン体制下では、ハプスブルク家はオーストリア皇帝として生き残り、なおもハンガリーなどを含む中欧に大きな勢力を維持した。また宰相メッテルニヒはヨーロッパの保守反動体制の中心となって、フランス革命・ナポレオンの影響を受けたヨーロッパ各地の民族主義や自由主義の運動を厳しく弾圧した。
 しかし、1848年のパリの二月革命がベルリンとウィーンにも波及して、三月革命が起こると、政治的自由を求めるウィーンの市民だけでなく、帝国支配地の各地で反ハプスブルクを叫ぶ民族運動が広がった。それを抑えることができず、メッテルニヒが失脚してウィーン体制は崩壊した。諸国民の春と言われた民族蜂起は、コシュートに指導されたハンガリーの民族運動ベーメン(チェコ人)やイタリアのミラノ蜂起ヴェネツィアでも起こった。
 しかし、ドイツの統一を目指したフランクフルト国民議会が失敗に終わり、ドイツ統一の主導権がプロイセン王国に握られることと成り、オーストリアは排除された。さらに、諸民族の運動はロシアなどの軍隊によって抑えられ、いずれも鎮圧されてしまった。

(11)領土の縮小

 三月革命の失敗後、議会開設などの約束は実施されず、再びハプスブルク家皇帝フランツ=ヨゼフ1世の専制政治にもどり、その政治が長期化した。ドイツ統一の主導権を失ったオーストリアは軸足を、ボヘミアやハンガリーなどの従属地域の経営と、バルカン半島でのさらなる南下を求めるようになった。しかしそれは1853年のクリミア戦争にみられるような南下政策を強めているロシアとの関係を悪化させることとなった。また、イタリア統一戦争ではサルデーニャ、フランス連合軍と戦い大敗を喫した。

(12)オーストリア=ハンガリー二重帝国

 そのころ、プロイセンには首相ビスマルクが軍事力を強めてオーストリアを叩く機会を探っており、両国は1866年に普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)を戦うこととなった。軍事力に勝るプロイセンに敗れ、ハプスブルク帝国は存亡の危機に陥った。ヴェネツィアはイタリアに返還したが南チロルとトリエステはオーストリア領として残ったので、イタリアは「未回収のイタリア」と称してその奪回を叫ぶようになった。翌1867年、アウスグライヒ(妥協の意味)と言われる転換を行った。これはハンガリーの独立運動に対し、独立を認めながら同じハプスブルク家を君主としていただくオーストリア=ハンガリー(二重)帝国とするというもので、ハンガリーの不満を解消することに成功して危機を脱した。 → 二重帝国の意味についてはアウスグライヒの項を参照。

(13)アウスグライヒ体制の矛盾

 ハプスブルク家のフランツ=ヨゼフ1世はオーストリア皇帝と同時にハンガリー王を兼ねながら、両国にはそれぞれ議会が存在する独立国であるという二重帝国が成立した。この「アウスグライヒ体制」は様々な矛盾を抱えていたが、特に、オーストリアにはボヘミア、ハンガリーにはクロアチアという被支配民族が存在していることが複雑な国家統治を余儀なくされ、単一国家としてのまとまりに著しく欠けていた。

(14)ハプスブルク帝国の終焉

 そのような内部矛盾を覆い隠すように、オーストリア=ハンガリー二重帝国はバルカン方面への進出を強め、1877年の露土戦争でロシアがバルカン半島に勢力を伸ばしたことに反発、ビスマルクの仲介によりベルリン会議を開催、ベルリン条約ボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した。それに対してスラブ系民族のセルビアは強く反発し、民族対立が深刻となっていった。
 そのような情勢にもかかわらず、1908年、オスマン帝国の青年トルコ革命の混乱に乗じてボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行した。これが、1914年にボスニアの首都サライェヴォを訪問したハプスブルク家の皇位継承者フランツ=フェルディナントがセルビア人青年に射殺されるというサライェヴォ事件の要因だった。この銃声から第一次世界大戦へと突入し、オーストリアはドイツと共にイギリス、フランス、ロシアなどの協商国との戦闘を行うことと成り、さらにイタリアが協商国側に付いたことから、東西両戦線での苦しい戦争となった。1918年、戦争はドイツ、オーストリアの同盟側の敗北に終わり、同年、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世が退位、亡命してオーストリア=ハンガリー帝国=ハプスブルク帝国は消滅した。

参考 ハプスブルク神話

 1919年4月3日、「ハプスブルク法」が制定され、ハプスブルク家一族の国外追放と財産の没収が決定された。その成員は共和国に忠誠を誓い、一市民となる場合のみ、オーストリア残留が許された。同日、貴族特権の廃止も制定された。ハイドン作曲の「皇帝讃歌」は国歌でなくなり、国旗もハプスブルク家支配以前のバーベンベルク家由来の「赤白赤」に代えられた。
 その一ヶ月前、前皇帝カール一家はイギリスに亡命した。しかしカールは復位の機会を狙っていた。1921年ハンガリーのクン=ベラ社会主義政権が倒れたときにはハンガリー王に復位しようと工作したが議会が反対し、カール一家は危険人物としてポルトガル領マディラ島に収容され、カールは翌年死んだ。それでも妻のツィタと子供のオットーがいた。二人はスペイン国王に保護された。オットーが成長するにつけ、オーストリアの民族派によって担ぎ出されそうになった。しかしヒトラーによるオーストリア併合はオーストリア皇帝の復活を許さなかった。
 オットーは第二次世界大戦中、パリに逃れ、クーデンホーフ=カレルギーのヨーロッパ統合運動に協力した。戦後オーストリアに入り復位をねらったが失敗し、その後西ドイツ国籍を取得して欧州議会議員選挙に当選している。1955年、ロミー=シュナイダー主演の映画『プリンセス・シシー』(エリーザベト皇后をモデルとした宮廷もの)がヒットしたあたりから、「ハプスブルク神話」ともいえるハプスブルク帝国時代を美しく回顧する風潮が出てきた。そんな中、「最後の皇后」ツィタがオーストリアへの一時帰国が認められ、ウィーンでは大歓迎された。
 1989年にはツィタの葬儀がウィーンでハプスブルク帝国時代の伝統に則した盛大さで挙行された。オットーは1999年に来日し、天皇にも会見している。オットー=ハプスブルクは2011年7月4日に亡くなったが、ウィーンのシュテファン大聖堂で盛大な葬儀が営まれ国営放送が中継放送した。抗議の声もあったが「プライベートな国葬」として実行された。ローマ教皇ベネディクト16世はオットーの子「オーストリア大公カール」にあてに弔意を発した。・・・<岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p.372-404>
ハプスブルク家退位から、2018年で100年になるが、「ハプスブルク神話」なるものがまだ生きているということか。オーストリアの右傾化と結びつかないことを祈るのみである。(2017.12.30記)
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書籍案内

江村洋
『ハプスブルク家』
1990 講談社現代新書

大津留厚
『ハプスブルク帝国』
世界史リブレット 30
1996 山川出版社

河野純一
『ハプスブルク三都物語
ウィーン、プラハ、ブダペスト』
2009 中公新書

岩﨑周一
『ハプスブルク帝国』
2017 講談社現代新書