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無制限潜水艦作戦

第一次世界大戦でドイツはイギリスの海上封鎖に対抗し潜水艦を使用していたが、ルシタニア号事件を受けて一旦停止した。しかし大戦後半の劣勢を挽回するため、1917年2月から無制限潜水艦攻撃を開始、それを受けてアメリカが参戦した。

経済封鎖と潜水艦戦

 第一次世界大戦のさなか、ドイツ海軍はイギリス海軍による海上封鎖に対抗し、潜水艦Uボート)による潜水艦攻撃を実行した。ねらいは、制海権をイギリスに握られている中、イギリスが輸入に依存している食糧の小麦を商船ごと沈めることで打撃を与えようというものであった。当初、警告してから攻撃していたが、1915年2月から、今後は無警告で攻撃するとした。作戦としては功を奏し、イギリス商船で撃沈されるものが急増し、イギリスは食糧難の危機となった。

ルシタニア号事件

 商船に対する潜水艦攻撃は当然第三国人に被害を及ぼす。1915年5月にはアイルランド南岸でイギリスの豪華客船ルシタニア号がUボートに撃沈され、アメリカ人の乗客に犠牲が出たことから、アメリカ国内の反ドイツ感情が強まった。ドイツは国際世論の反発とアメリカの参戦を恐れて、いったん潜水艦攻撃を停止しすることにした。アメリカでも参戦に反対する意見も多く、この時すぐに参戦するとはならなかった。

無制限潜水艦攻撃作戦

 陸上の戦いではヴェルダンの戦いを機にドイツ・オーストリアの形勢が悪くなり、さらにルーマニアが参戦したためドイツ側が狙った早期決着は困難となった。このような戦局の手詰まりになる中、1916年後半からドイツ国内では無制限潜水艦攻撃による形勢逆転を主張する声が強まった。ドイツ海軍はその声を受けて、潜水艦の建造を急ピッチで進めた。
 無制限潜水艦攻撃とは、イギリスに向かう商船に対しては中立国であっても無警告で雷撃すると言うことである。そのため中立国、特にアメリカの反発が強まることが予想されるので、さすがのヴィルヘルム2世やベートマン=ホルヴェーク首相も躊躇したが、軍のヒンデンブルクやルーデンドルフは、無制限潜水艦作戦の即時開始を強く主張した。海軍は潜水艦が最終的な決戦兵器であるとの思想が強く、その最大限の効果を発揮するには、無制限攻撃しかない、と主張した。当然アメリカの参戦が必至となるとの意見もあったが、ルーデンドルフは「アメリカなど恐るるに足らず」と一蹴した。その結果、1917年1月初めに、1917年2月1日をもって作戦を開始することを宣言し、実際に決行した。
(引用)なお、ここでいう無制限とはやゝ誤解を招く表現で、厳密には国際法の戦時拿捕規定の制約に拘束されないという意味である。拿捕規定によれば、交戦海域を航行する商船を攻撃する場合、潜水艦は浮上して商船に停止を命じ、船内を臨検して戦時禁制品積載の有無を調べ、積載が確認されれば、没収するか、乗員を離船・避難させた後撃沈する、という手順を踏む必要があった。ドイツが開戦後しばらくは、潜水艦を商船拿捕・攻撃に向けず、もっぱらイギリス艦隊の偵察用に限定していたのも、この規定が意識されていたからである。無制限潜水艦作戦とは、イギリスに向かう商船がドイツの指定航路外を航行する場合、潜水したままのドイツ潜水艦の無警告の雷撃の対象になるというもので、中立国に周知させる必要から、作戦開始日と対象水域が公表された。<木村靖二『第一次世界大戦』2014 ちくま新書 p.165-166>

アメリカの参戦とイギリスの反撃

 無制限潜水艦作戦の発動を受けて、アメリカは2月3日、ドイツに国交断絶を通告、実際に撃沈されるアメリカ船が増えたことにより、1917年4月6日、アメリカは第一次世界大戦に参戦し、ドイツに宣戦を布告した。
 また、イギリス海軍はドイツ近海への機雷敷設範囲を拡大して対抗し、首相ロイド=ジョージが、護送船団方式(商船に船団を組ませ、駆逐艦などで護衛する)を採用して対抗した。イギリスの船舶建造能力も打撃を受けなかったので衰えず、その損耗はただちに回復された。
 ドイツ潜水艦の損害は徐々に増加し、出撃した335隻中175隻(53%)、つまり半数以上が帰港しなかった。また、宣戦したアメリカが大陸に兵員を送った輸送船も、ドイツの攻撃で失ったのは2隻に過ぎず、大西洋を越えて大戦終結までに200万人の兵士をヨーロッパに運んだ。<木村靖二『同上書』 p.166>
 つまり、無制限潜水艦作戦はドイツを勝利に導くことにはならず、ほとんど効果が出ずに終わり、かえってその失敗が敗北につながったということができる。
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木村靖二
『第一次世界大戦』
2014 ちくま新書