印刷 | 通常画面に戻る |

ロイド=ジョージ/ロイド=ジョージ挙国一致内閣

20世紀初頭、イギリス自由党の政治家。蔵相として社会保険法、人民予算の実現、議会法制定などで国政で実績を上げ、第一次世界大戦期には挙国一致内閣の首相として戦争を指導し、パリ講和会議では対ドイツ強硬論を主張した。アイルランド問題の解決にあたり、北アイルランドの分離に踏み切った。

Lloyd-George
Lloyd-George 1863~1945
 ロイド=ジョージ David Lloyd-George 1863~1945 は、マンチェスターの小学校教員の父を生後すぐに失い、ウェールズの母の実家で育てられた。独学で法律を勉強し、弁護士資格を取った。イングランド人でもなく、オックスフォードまたはケンブリッジ大学出身でもなく、しかも国教徒ではない人物が、イギリスの政治の中枢に進出したことは注目すべきことであった。自由党に属して、政治と社会の改革を実行し、また第一次世界大戦ではその戦争指導にあたって連立内閣を組織、戦後のパリ講和会議ではアメリカのウィルソン、フランスのクレマンソーとともに指導的な役割を担った。ロイド=ジョージは20世紀前半のイギリスの代表的政治家の一人であり、帝国主義時代の世界で功罪共に重要な役割を担ったと言うことができる。

福祉と軍備

 彼は27歳で下院議員に当選、はじめはジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策に反対し、南アフリカ戦争を非難した。1908年、自由党のアスキス内閣が成立して蔵相に任命されると、自らドイツに視察にむかい、ビスマルクの社会政策以来のドイツの社会保障制度を調査し、帰国後、労働党の協力のもとに1911年に国民保険法を制定し社会改革を実行した。
「人民予算」と議院改革 ドイツのヴィルヘルム2世の帝国主義政策の脅威が強まり、建艦競争を展開するようになると、ロイド=ジョージ蔵相は軍艦建造費と同時に労働者向けの老齢年金制度の導入などの社会保障を実現に向けての財源確保のため、富裕層への課税(累進課税)や土地課税で乗り切ろうとし、それを「人民予算」と名付けて労働党の支持によって下院で予算案を成立させた。それに対して土地貴族(ジェントルマン)を基盤とする上院が反対して否決すると、アスキス首相は国王(エドワード7世)に大量の叙爵による貴族任命を迫り、それを避けたい保守党の妥協を引き出し1911年8月、議会法を成立させて予算決定での下院の優先の原則をうちたてた。こうして上院(貴族院)の抵抗を排除し、下院(庶民院)優先の原則を確立したことはイギリス議会制度の歴史のなかで画期的なことであった。

ロイド=ジョージ挙国一致内閣

 第一次世界大戦が始まるとアスキス連立内閣の軍需相となったが、その戦争指導をめぐり、より積極的な戦時態勢をつくることを主張してアスキスと対立するようになり、り、1916年12月に保守党の協力を受けてアスキスに替わって首相に就任、チャーチル海相を復帰させるなど挙国一致連立内閣を組閣した。ロイド=ジョージ内閣は世論に働きかけて戦争への積極姿勢を示し、またインドなど帝国内の植民地の協力を求めた。この内閣は、戦後を含めて1922年まで続くが、自由党・保守党・労働党の三党が戦争という非常事態にあたって挙国一致の協力体制を作りあげたものであった。1917年11月には外相の名でバルフォア宣言を出して、ユダヤ人のパレスチナ帰還と国家建設を指示し、ユダヤ系財閥の協力を取り付けたのもその一環だった。
ヴェルサイユ体制の構築 1918年11月には、第一次世界大戦の休戦協定が成立し、挙国一致内閣の最大の課題は終了したが、戦後も内閣は存続し、パリ講和会議にはロイド=ジョージ首相自身がイギリス代表として参加した。パリ講和会議ではアメリカのウィルソン、フランスのクレマンソーとともに中心メンバーとして活躍し、対ドイツ強硬論を主張して、ヴェルサイユ体制でドイツに対する厳しい条件の講和条件を盛り込んだ。
女性参政権の承認 内政では、1918年に、大戦中の女性の社会進出という情況を受けて、選挙法改正(第4回)を行い、イギリスの女性参政権を最初に承認した。ただこの時に選挙権を与えられたのは「戸主又は戸主の妻である30歳以上の女性」であって完全な男女平等では無く、男性と同じ21歳以上の普通選挙権となったのは、1928年のことである。
アイルランドの分断 また懸案のアイルランド問題では大戦中の1916年のイースター蜂起に続き、1918年の総選挙でシン=フェイン党が躍進、翌年彼らはアイルランドで独自の国民議会を開設しアイルランド共和国独立を宣言したため、武力衝突し、イギリス=アイルランド戦争となった。ロイド=ジョージは事態を収束させるため1920年、アイルランド自治法に代わるアイルランド統治法を立案、議会を通過させた。それはアイルランドをイギリス帝国を構成する自治領(ドミニオン)として実質的独立を認めると同時に、北アイルランドを分離しイギリスの一部として限定的な自治を与えるというものであった。イギリス軍とアイルランド共和国軍(IRA)の戦闘は1921年12月に講和が成立し、イギリス=アイルランド条約が締結されて北アイルランドを除く諸州はアイルランド自由国を成立させたが、シン=フェイン党は北アイルランドも含めたイギリスからの完全独立を主張するグループが分裂し内戦に突入した。また、北アイルランドはイギリス領にとどまりながら独自の議会と政府を持つという一定の自治を認められたが、その政権はイギリスの支持を受けたプロテスタントが占め、カトリック教徒は少数派として権利を奪われたため、その後も長く北アイルランド紛争が続くこととなる。

Episode ケルトの魔術師とその死

 このアイルランド問題の解決は大きな懸念を残しながら、一応の解決を見たことによって、ロイド=ジョージの巧みな交渉術の成果として評価され、彼には「ケルトの魔術師」なるあだ名がついた。ケルト系のウェールズ出身で、しかも大学も出ていないたたき上げというイギリス政界では珍しい人物であったので、従来のしがらみや価値観に囚われない決断が出来たと言うことであろう。しかし、魔術師が編み出した解決策は、アイルランド問題でも、ヴェルサイユ条約でのドイツに対する苛酷な処置でも、20世紀をつうじての新たな問題を生み出していくこととなる。国内政治ではイギリス自由党は大戦後、労働党に押されて後退し、1945年のロイド=ジョージの死と共に権勢を失うこととなった。。

用語リストへ 14章1節15章2節

 ◀Prev  Next▶ 


印 刷
印刷画面へ