臨時政府(ロシア革命)
1917年、ロシアの二月革命で成立した、ブルジョワ共和制を目指した政府。労働者・兵士のソヴィエトと対立し二重権力となった。
1917年の二月革命(三月革命)が勃発して、首都ペトログラードの機能が革命派に握られると、国会(ドゥーマ)議員のロジャンコらブルジョワ自由主義者らは国会臨時委員会を組織し、ペトログラード=ソヴィエト(代表はメンシェヴィキのチヘイゼ)と協定して、憲法制定議会を近い将来に召集して新たな国家体制を決定することとし、それまでの暫定的政権として臨時政府を設立することとした。
一方で各地でソヴィエトを樹立した労働者大衆は、帝政打倒・封建的支配の解消だけでは満足しない情況もあり、なによりも第一次世界大戦中であってドイツ・オーストリア・オスマン帝国との戦争を継続するかどうかが最大の問題であった。臨時政府は政治体制は議会制を基礎としたブルジョア共和政を目指し、農村改革には積極的であったが資本主義を擁護する姿勢を明確にし、さらにイギリス・フランスとの経済協力を失うことを恐れ、戦争を継続する道を選んだ。このような姿勢は次第にソヴィエトとの対立を深め、二重権力といわれる状態に陥った。
ソヴィエトとの二重権力
それによって3月2日に、立憲民主党(カデット)のリヴォーフ公爵を首相兼内務大臣とする臨時政府が成立した。同じ日にニコライ2世が退位し、ロシア帝国は消滅し、臨時政府のもとで新国家を建設することになった。臨時政府の閣僚は外務大臣が同じくカデットのミリュコーフであり、その多くは大土地所有者や大工場主、あるいはブルジョワ自由主義者などであった。司法大臣として入閣したエスエルのケレンスキーのみが比較的労働者大衆に近い存在であった。一方で各地でソヴィエトを樹立した労働者大衆は、帝政打倒・封建的支配の解消だけでは満足しない情況もあり、なによりも第一次世界大戦中であってドイツ・オーストリア・オスマン帝国との戦争を継続するかどうかが最大の問題であった。臨時政府は政治体制は議会制を基礎としたブルジョア共和政を目指し、農村改革には積極的であったが資本主義を擁護する姿勢を明確にし、さらにイギリス・フランスとの経済協力を失うことを恐れ、戦争を継続する道を選んだ。このような姿勢は次第にソヴィエトとの対立を深め、二重権力といわれる状態に陥った。
ケレンスキー政権
しかし諸党派の寄せ集めだった臨時政府は統一が取れず、内部対立から自壊し、7月にケレンスキーが首相に就任し、ソヴィエトの多数派であったエスエルとメンシェヴィキがそれを支持した。このケレンスキー政権は、戦争継続の道を選んだため、労働者大衆の不満は強まり、ボリシェヴィキに指導されたストライキが発生すると政府は武力でその運動を抑圧(七月暴動)し、レーニンをドイツのスパイとして逮捕しようとしたが、レーニンはフィンランドに逃れた。臨時政府の崩壊
ケレンスキー政権は軍を統制することができず、コルニーロフ将軍が帝政復活を策して反乱を起こすとそれを抑えることができず、ボリシェヴィキの赤衛軍が代わって首都の防衛に立ち上がって反乱軍を打倒したため、ボリシェヴィキへの支持が強まった。フィンランドから変装知れペトログラードに戻ったレーニンは、臨時政府を倒して一気にプロレタリア革命に突入する決意をしてボリシェヴィキを結集し、十月革命(十一月革命)を起こして武装蜂起し、政府中枢を占領、閣僚は逮捕され無血のまま臨時政府は崩壊した。ケレンスキーは冬宮の執務室から脱出し、国外に逃亡した。