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ケレンスキー

社会革命党右派の指導者としてロシアの二月革命後、臨時政府首相となった。十月革命でボリシェヴィキによって倒され、亡命した。

 ケレンスキー(1881~1970)は、ペテルブルク大学で法律を学び、弁護士となる。社会革命党(エス=エル)右派に加わって政治活動を開始し、1912年以来、国会(ドゥーマ)議員を務めていた。

二月革命で臨時政府樹立

 1917年二月革命が起こると、ペトログラード労働者・兵士ソヴィエト議長となり、さらに臨時政府に加わって法相となった。臨時政府はツァーリ政府と同様に第一次世界大戦に対して、連合国との関係を重視して参戦を継続した。それは戦争の即時中止を求める労働者大衆の要求を無視することだったので、各地に臨時政府に対する反対のストライキが起こった。

ボリシェヴィキとの対立深まる

 1917年8月(旧暦7月)には臨時政府の首相となったが、二重権力といわれた一方の労働者・兵士ソヴィエトにおいても、ケレンスキーの率いる社会革命党はボリシェヴィキよりも優勢だったので、ケレンスキーは強大な権力をにぎることとなった。そのような情勢を背景に、ケレンスキーは対外的な危機を無視して戦争を継続したため、即時講和を主張するボリシェヴィキとの対立を深め、ボリシェヴィキに指導された労働者が七月暴動(七月事件)を起こすと、レーニンをドイツのスパイだとして攻撃し、弾圧した。レーニンやトロツキーはケレンスキー政府の追及を逃れて再び亡命した。

十月革命で亡命

 しかし、戦争の主導権を巡って臨時政府と対立した軍部が、コルニーロフに率いられて反乱を起こすと、ケレンスキー政府はそれを抑えることができず、ボリシェヴィキの赤衛隊が立ち上がって反乱軍を鎮圧したため、ボリシェヴィキの力が復活した。10月、ロシアに戻ったレーニンの指導で武装したボリシェヴィキがペトログラードで蜂起し、政府の建物を占領し権力を握るという十月革命が起こった。ケレンスキーは女装してペトログラードの冬宮を脱出、革命政府に対する反乱を組織しようとしたが失敗し、亡命した。その後、フランス・イギリスで生活し、第二次世界大戦が起こるとアメリカに渡り、スタンフォード大学で教授となった。
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