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戦時共産主義

1918~21年、ロシア革命が反革命と干渉によって危機となったとき、レーニンが採用した穀物の調達などの強制的な革命防衛政策。

 第2次ロシア革命の過程で、1917年10月(ロシア暦)の十月革命(十一月革命)で成立したソヴィエト政権であったが、各地に出現した反革命政権との激しい内戦、さらにイギリス、フランス、アメリカ、日本など外国の対ソ干渉戦争に悩まされることとなった。この反革命と干渉戦争に勝ち抜くために、1918年から21年にかけてレーニンの指導のもと、ソヴィエト政権がとった経済政策を「戦時共産主義」という。1918年6月11日、貧農委員会を組織して富農に食糧供出を強制するなど、 「すべてを戦線へ」をめざした。
 戦時共産主義下では、まず農民に穀物の余剰生産分を強制的に供出させる「穀物独裁」が実施され市民の食糧は配給制となった。生産物を隠匿した農民は、階級の敵の「富農(クラーク)」であるとして、反革命を取り締まるチェカによって逮捕され、シベリアに送られるなどの弾圧を受けた。さらに工場国有化の方針が大工場から小工場にまで拡大さた。その結果、貨幣は必要ないものとされ、労働者の報酬は現物となり、私企業は一切禁止された。これはレーニンによって共産主義への必然的な飛躍と位置づけられたが、現実には農民、労働者の労働意欲をいちじるしく後退させ、生産の停滞を招いた。

穀物の強制徴発

 1918年、春から初夏にかけて深刻な食糧危機に襲われたソヴィエト政権は、富裕になった農民が余剰穀物をかくしているとして、余剰穀物供出義務を定め、食糧人民委員に非常大権を与えるという「穀物独裁」令を5月13日に制定した。これを実施するために、武装した労働者の食糧徴発隊が農村に送り込まれた。この政策に対して、エスエル左派は、「勤労農民とプロレタリアートが相互にけしかけられる危険がある」と批判を加え、強く反対し、農村でも激烈な反対闘争がおこつた。18年末までに農村には72000人の労働者が入ったが、その一割は農民に殺されたという。<岩間徹『新版ロシア史』山川出版社による>
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