印刷 | 通常画面に戻る |

ラパロ条約

1922年、ドイツ共和国がロシアのソヴィエト政権を承認した条約。ソ連の国際的承認の最初となった。

 1922年4月に締結された、ドイツ共和国ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(ソヴィエト=ロシア)の条約。この条約は革命後のソヴィエト政権を外国が承認した最初の条約である。4月、ジェノヴァで開催された大戦後のヨーロッパ経済の復興についての国際会議であるジェノヴァ会議に招待された「敗戦国」ドイツの代表ラーテナウと「社会主義国」ソヴィエト=ロシアの代表チチェーリンが、ジェノヴァ近郊のラパロ(ラッパロ)で締結した。内容は正常な外交・通商関係の樹立、賠償の相互放棄、ドイツの債権放棄、最恵国待遇の適用、経済関係の促進を約束などである。
 これによってソヴィエト=ロシアははじめて対外的に認知され、同年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦となる。しかし、ドイツ以外のソ連の承認は遅れ、最後のアメリカは1933年の承認となった。

秘密条項の存在

 この条約の付属秘密協定で、ドイツは軍事指導教官をロシアに送り赤軍の整備・強化を援助することが約束された。ロシアのボリシェヴィキ政府としてはドイツに接近することによって資本主義国の反共統一戦線の成立を困難ならしめ、ドイツはロシアへの工業製品の売り込みと、ヴェルサイユ条約できびしく軍備制限されているなかで、軍事上の訓練の機会などを持とうとした。<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.198-200>

ラパロ条約の衝撃

 1922年にドイツとソヴィエトの間でラパロ条約が締結されたことは、戦後最大のセンセーショナルな事件として受け止められた。その背景には、ソヴィエト=ポーランド戦争が最終的にはポーランド有利に終わり、ベラルーシとウクライナのかなりの領土を併合したことで、ポーランドの脅威に備える必要を両国が感じたことである。未だソヴィエト=ロシアと国交を持っていない西欧列強にとって、ドイツがロシアと結んだことは、ラッパロ=コンプレックスといわれる不信感を残した。
 ブレスト=リトフスク条約は事実上、ヴェルサイユ条約で効力が無くなっていたので、新ドイツと新ロシアが公式の外交関係を開始し、相互最恵国待遇での通商関係を結んだだけで無く、以前からすでに緩やかに始まっていた独ソ間の軍事協力が出来上がった。ドイツ国防軍は、ヴェルサイユ条約で禁止された武器である戦車、飛行機、化学ガスの訓練をソヴィエトで行い、ソヴィエトで建設中の赤軍にはドイツ参謀本部流の訓練が施された。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.169-171>