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ジェノヴァ会議

1922年4月、第一次世界大戦後の最初のヨーロッパ経済復興国際会議。ドイツなど敗戦国も出席、またソヴィエト政権も初めて国際会議に出席した。ここで接触したドイツとソヴィエト政権は別個にラパロ条約を締結、国交を開いた。

 第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約でドイツの賠償義務が明確にされ、1921年4月にその総額が1320億金マルクと決定されて実際にドイツに対して最後通牒付きで請求された。ドイツは履行政策をとりその分割支払いを開始したが、同時に過重な負担に対する国民の反発が強まり、ドイツ賠償問題が戦後最大の問題となり始めた。

ヨーロッパ経済復興国際会議

 そのような中、第一次世界大戦後のヨーロッパの経済をどう復興、再建するかという共通課題について、対立渦中にあるフランス・ドイツをふくむ国際会議を開催する気運が生じ、イギリスのロイド=ジョージが提唱して、1922年4月10日、イタリアのジェノヴァで経済復興に関する最初の国際会議が開催された。この会議には、ドイツなど旧同盟国側も含めた29カ国が参加しただけでなく、ソヴィエト政権(ソヴィエト=ロシア、この年12月正式にソヴィエト連邦となる)も招請されて参加した。ソヴィエト政権が参加したのは、前年の1921年にレーニン新経済政策(ネップ)を打ち出し、市場経済を容認する姿勢に転換していたためであった。

ソ連、初めて国際会議に出席

 レーニンはこの会議に代表を送るに当たり、「われわれがジェノヴァへ赴くのは、もとより共産主義者としてではなく商人としてであり、我々は商売をしなければならないが、彼らも商売をしなければならないのである。」と述べた。この情勢の変化を見たイギリスのロイド=ジョージは、資本主義諸国が国際的合弁事業の形でロシアに投資し、市場の開拓を行うことを提案した。
 イギリス・フランスは、ソ連に対して、帝政ロシア及びケレンスキー政府の負った債務を引き受けることとソ連政府が没収した外国人財産に対する請求権を要求した。ソ連代表チチェリンはそれらを拒否し、逆に対ソ干渉戦争による被害に対する賠償を要求した。そのため会議は難航し、不調に終わった。元々ジェノヴァ会議がアメリカの参加を得ることなく、戦後経済の諸問題を解決しようとしたところに無理があった。<齋藤孝『戦間期国際政治史』岩波現代文庫 旧版 p.70>

意外な副産物

 ところが、この会議中にソヴィエトとドイツが接触を重ね、国交を結ぶことで合意し、1922年4月16日にラパロ条約を締結、ドイツ共和国がヨーロッパで最初のソヴィエト革命政権を承認した国家となり、資本主義国を驚かせた。<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.197 など>
 ラパロ条約でドイツとソヴィエト政権は、両国間の外交関係を復活させただけでなく、相互に賠償を放棄し、経済的に協力することを約した。このように、ラパロ条約という副産物を生んだが、本来の目的である戦後の経済復興に関するヨーロッパ諸国の協力態勢を生み出さすことはできず、また賠償問題を巡るフランスとドイツの溝を埋めることはできずに、5月19日に終了した。 → フランス・ベルギーのルール占領
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