ジェノヴァ会議
1922年4月、イギリス首相ロイド=ジョージの提唱で開催された第一次世界大戦後の最初のヨーロッパ経済復興国際会議。ドイツなど敗戦国も出席、またソヴィエト政権も初めて国際会議に出席した。大戦後の経済復興の焦点となっていた賠償問題などについて協議したが、イギリスとフランスの対立などで部分的な金本位制への復帰への合意などを除いて、ほぼ決裂し、大きな成果を得られなかった。ここで接触したドイツとソヴィエト政権は別個にラパロ条約を締結、国交を開いた。これ以後、第二次世界大戦まで、本格的な国際会議は開催されなかった。
ヨーロッパ経済復興国際会議
1922年4月~5月、イタリアのジェノヴァ(英語発音だとジェノア)で開催され、ジェノヴァ経済金融会議 Genoa Economic and Financial Conference が正式な名称。第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約でドイツの賠償義務が明確にされ、1921年4月にその総額が1320億金マルクと決定されて実際にドイツに対して最後通牒付きで請求された。ドイツは履行政策をとりその分割支払いを開始したが、同時に過重な負担に対する国民の反発が強まり、ドイツ賠償問題が戦後最大の問題となっていた。そのような中、第一次世界大戦後のヨーロッパの経済をどう復興、再建するかという共通課題について、対立渦中にあるフランス・ドイツをふくむ国際会議を開催する気運が生じ、イギリスのロイド=ジョージが提唱して、1922年4月10日、イタリアのジェノヴァで戦後ヨーロッパの経済復興に関する最初の国際会議が開催された。
アメリカは不参加 しかし、アメリカ合衆国は参加を要請されたが、国内では国際連盟への不参加など、なおもヨーロッパへの関与を否定する孤立主義が強かったため参加せず、オブザーバー参加にとどまった。一方、アジア・太平洋方面では日本の進出に対応するため、前年からワシントン会議を開催していた。なお、ジェノヴァ会議はヨーロッパの復興が課題であるので日本は参加していない。
ソ連、初めて国際会議に出席
この会議には、ドイツなど旧同盟国側も含めた29カ国が参加しただけでなく、ソ連(厳密にはロシアのソヴィエト政権で、この年12月正式にソヴィエト社会主義共和国連邦/ソ連となる)も招請されて、代表チチェーリンが参加した。ソヴィエト政権が参加したのは、前年の1921年にレーニンが新経済政策(ネップ)を打ち出し、市場経済を容認する姿勢に転換していたためであった。レーニンはこの会議に代表を送るに当たり、「われわれがジェノヴァへ赴くのは、もとより共産主義者としてではなく商人としてであり、我々は商売をしなければならないが、彼らも商売をしなければならないのである。」と述べた。この情勢の変化を見たイギリスのロイド=ジョージは、資本主義諸国が国際的合弁事業の形でロシアに投資し、市場の開拓を行うことを提案した。難航した協議
会議は当時の国際課題解決に向けての期待から、世界的な注目を浴び、イギリスのロイド=ジョージが主導し、経済復興の為の協力体制、ドイツ賠償問題、ソ連の戦債償還問題、軍縮問題など多岐にわたる協議が4月から5月にかけて行われた。しかし、各国間の宥和に積極的なロイド=ジョージに対し、フランス代表ポワンカレはドイツ・ソ連に対する強硬姿勢の隔たりが大きく、協議は難航した。以下、その合意点と決裂した点をまとめると次のようになろう。- 金本位制への復帰 各国は大戦中に戦費が必要となり紙幣を発行し金本位制が崩れ、インフレが進行していたので、戦後の経済復興のため金融・通貨制度を安定させる必要から、金本位制に戻ることで合意した。ただし、それはそれまでの金本位制と異なり、アメリカとイギリス以外の各国が金地金を兌換準備とするほか、預金・手形・短期証券などの外国通貨建て資産(金為替)を国際収支の決済手段として認めた。一般にこの場合は金為替本位制といわれる。
- ドイツ賠償問題 ロイド=ジョージはドイツの賠償金の減額や支払期間の延長など宥和策を探ったが、大戦で大きな被害を受けたフランスはそれを認めず、ポワンカレは賠償がなされない場合は出兵すると脅した(事実それは、翌年のルール占領で実行された)。その結果、ドイツ賠償問題は棚上げとされた。ドイツ(ワイマール共和国)国内では、賠償金履行政策を進めようとした外相ラーテナウが右翼によって殺害されるという事件が起こった(同年6月)。
- ロシアの戦債問題 イギリス・フランスは、ソ連に対して、帝政ロシア及びケレンスキー政府が大戦中に負った債務を引き受けることと、ソ連政府が没収した外国人財産に対する請求権を要求した。ソ連代表チチーェリンはそれらを拒否し、逆に対ソ干渉戦争による被害に対する賠償を要求した。そのため会議は難航し、不調に終わった。そのため、会議でソ連を国際的に承認することもなかった。
- 軍縮問題 ソ連代表のチチェーリンは、軍縮の一環として毒ガスの禁止などを提唱した。しかし、フランスはヴェルサイユ条約の規定(ドイツの軍備制限)の遵守を主張し、軍縮問題そのものを協議することを拒否したため、進展しなかった。この時提起された毒ガス禁止は、1925年のジュネーヴ議定書で実現する。
意外な副産物
ところが、この会議中にソヴィエトとドイツが接触を重ね、国交を結ぶことで合意し、1922年4月16日にラパロ条約を締結、ドイツ共和国がヨーロッパで最初のソヴィエト革命政権を承認した国家となり、資本主義国を驚かせた。<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.197 など>ラパロ条約でドイツとソヴィエト政権は、両国間の外交関係を復活させただけでなく、相互に賠償を放棄し、経済的に協力することを約した。このように、ラパロ条約という副産物を生んだが、本来の目的である戦後の経済復興に関するヨーロッパ諸国の協力態勢を生み出さすことはできず、またドイツ賠償問題を巡るフランスとドイツの溝を埋めることはできずに、5月19日に終了した。 → フランス・ベルギーのルール占領