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ソ連の承認

1922年にラパロ条約でドイツが最初に承認し、24年のイギリス、フランス以降各国が続いた。日本は25年に承認した。アメリカの承認は遅れて33年となり、その翌年、ソ連の国際連盟加盟が実現した。

ドイツのソ連承認

 世界最初の社会主義国であるソヴィエト=ロシア政権を最初に承認したのは、1922年4月のドイツ共和国で、ラパロ条約の締結によってであった。同年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に発足するが、他の資本主義諸国はそれを認めようとしなかった。大戦後発足した国際連盟にも加盟は認められなかった。
 ようやく国際協調の動きが盛んになった1924年になってイギリスとフランスが承認、それ以降、列国による承認が続いた。しかし国内の反共思想が根強かったアメリカ合衆国のソ連承認は最も遅く、1933年であった。ソ連はこのように30年代にようやく国際的に認知され、1934年に国際連盟に加盟する。

イギリス・フランスのソ連承認

 アメリカ経済に押され始めていたイギリスは自国工業製品の市場として、ロシアの新経済政策への転換を歓迎し、1921年には英ソ通商協定を締結し、交易を開始したが、正式な外交関係には踏み切らなかった。イギリスやフランスの保守層は、コミンテルンを通して革命を輸出するものとしてソ連(1922年12月から)への警戒を緩めなかった。実際、1923年のフランスのルール占領ではドイツと国交のあるソ連はドイツ労働者の反仏蜂起を支援した。しかし現実にはコミンテルンがロシア方式の革命をイギリス・フランスで指導して実現できる情勢にはなく、世界革命は単なる建前に棚上げされていった。そのなかで、イギリスでの労働党政府(マクドナルド内閣)は1924年1月、フランスは左翼連合政府が成立した1924年10月、両国はソ連を承認した。ただし、イギリスでは保守党政権が復活するソ連への拒絶感が強まり、国交は継続されたものの、両国関係は悪化してしまう。

日本のソ連承認

 1922年にワシントン会議の国際協調気運が高まる中、シベリア出兵を継続している日本に対する非難も強まり、同年、日本もようやく撤兵(南樺太を除く)した。日本はまた、1923年の関東大震災からの復興の必要もあり、隣接する海洋資源の分配や、相互の経済交流の促進させたほうが有利であると判断し、日露戦争以前からのロシア=ソ連敵視を改めて国交を開くため、1925年1月に日ソ基本条約を締結し、ソ連を承認した。それにともなって北樺太からも撤退した。

アメリカのソ連承認

 アメリカ合衆国のソヴィエト社会主義共和国連邦(1922年成立)承認は、イギリス・フランス(1924年)、日本(1925年)などより遅れ、F=ローズヴェルト大統領の時の1933年であった。それまでアメリカ合衆国政府は反共産主義の立場から、ソ連の承認を拒んできたが、F=ローズヴェルトは世界恐慌が深刻になる中で、ソ連と国交を開いてその市場を開拓することをねらった。また、ヨーロッパにおけるドイツとアジアにおける日本というファシズムの台頭を警戒し、ソ連と国交を結ぶことでその二国を牽制する意図もあった。ソ連側もドイツ・日本との対決に備えてアメリカ合衆国との提携を望んだ。両国の思惑が一致して、日本・ドイツの国際連盟脱退の後の1933年11月にアメリカはソ連を承認し、外交関係を開始した。それによってソ連の国際社会への参加は最終的に認められる形となり、翌1934年9月には国際連盟に加盟した。 → アメリカの外交政策 
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