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ソヴィエト社会主義共和国連邦/ソ連邦/ソ連

1922年12月に成立したロシアを中心とした社会主義国家の連邦。ソ連邦。


ソヴィエト社会主義共和国連邦 国旗
 ロシア革命(第2次)の過程でレーニンの主導するボリシェヴィキは、1917年十月革命(十一月革命)で権力を握り、世界で最初の共産主義を目指す政権を樹立した。それに対する資本主義諸国による一連の反革命戦争、干渉戦争に勝利し、新経済政策(ネップ)で経済体制を立て直し、ラパロ条約で国際的な認知を受けた後、1922年12月30日、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(18年7月成立)に、ベラルーシウクライナザカフカースの三つのソヴェト社会主義共和国が加わって、「ソヴィエト社会主義共和国連邦」を成立させた。ロシア語の略称がSSSR,英語の略称がUSSR、日本では「ソ連」と言われるようになる。後に加盟国が増え、共和国が15、自治共和国が20,自治区が8,民族区が10で構成されるようになった。首都はモスクワ。人口の54.6%はロシア人であるが、その他80以上の民族からなる多民族連邦国家であった。最高国家機関はソ連邦最高ソヴィエト。国家と社会の中枢はソ連共産党の一党独裁のもとにおかれた。 → ソヴィエト社会主義憲法 ソ連の承認 

ソ連邦を構成した15共和国

 ソ連邦を構成していた15カ国(ロシアは連邦共和国、他は共和国)。  第二次世界大戦後の1945年10月に発足した国際連合にはソヴィエト社会主義共和国連邦は一国として加盟したが、スターリンの主張で、ウクライナとベラルーシは独立扱いとなり、国際連合に議席を有した。

ソ連の歴史の時期区分

 ソ連の歴史はおよそ次のように段階づけることが出来る。(1922年までは「ソヴィエト=ロシア」、それ以後は「ソヴィエト連邦」)

ソ連(1)スターリン政権 集団化・工業化の時期

1924年にレーニンが死去、党内の権力闘争でトロツキーを排除したスターリンが権力を握る。

 スターリンは1922年にソ連共産党書記長となったが、すぐに権力を握ったとは言えなかった。1924年のレーニンの死後、世界同時革命を主張するトロツキーに対してスターリンは一国社会主義を掲げ、激しく路線を巡って争った。1926~27年にはトロツキーやジノヴィエフらの反対運動を押さえ、ついに1929年にはトロツキーを国外追放し、権力を掌握した。
 1928~29年には結党以来の理論家の一人であったブハーリンが農業政策を重視し、緩慢な工業化を主張してスターリンを批判したが、彼もスターリンによって失脚させられた。1928年からは急速な工業化と農村集団化を柱とした第1次五カ年計画を立案してその指導に当たった。それによってソ連は急速に工業化し、軍事の近代化も進んだが、食糧の増産のために農村集団化が強引に進められ、多くの犠牲者が出た。このスターリンによる強権的に実行された社会主義化は「上からの革命」という性格を免れなかった。その実行過程でスターリンは反対派を秘密警察などで告発させて弾圧し、1929年には独裁的な権力を確立した。その後、スターリン政権は30年代を通じて敵対者を粛清という名で抹殺し、独裁権力を手中に収め、個人崇拝が行われるに至る。 → スターリン体制

ソ連(2) スターリン体制の確立

1936年、ソ連のスターリン憲法の制定によりスターリン体制を確立させ、共産党が支配する国家の形態ができあがった。工業化も急速に達成されて一定の安定を見たことから、1934年に国際連盟に加盟、国際社会で認められた。しかし同時に西方でのナチス=ドイツの台頭・東方での日本の満州進出があって外交的な危機を迎えた。1938年、イギリスなどがドイツに対する宥和政策に転じたことから、翌年、ドイツとの不可侵条約を締結して世界に衝撃を与えた。外交危機の中で独裁権力を維持するため、1937~38年には激しい粛清を行い、多くの犠牲者を出した。

 1936年制定のソ連憲法、いわゆるスターリン憲法では、ソ連共産党は「あらゆる組織の指導的核」であると規定されいる。またスターリンは憲法草案を提案した第8回ソヴィエト大会で、「共産党の指導的地位は不変であり、ソ連邦には共産党一党のみが存在しうる」と演説している。

共産党一党支配

 ソ連社会主義体制のもとでは階級対立は消滅したが、プロレタリア階級はまだ消滅していず、プロレタリア独裁は継続されると考えられており、プロレタリア独裁は共産党の一党独裁と同義であるとされた。そこで、共産党以外の政党の存在は認められなくなる。ソ連という国家では共産党がすべてを指導されたので、「党に指導される国家」言い換えれば、「党が所有した国家」とか「党に支配される国家」と言われる。従って国家の最高機関である議会や、行政機関である内閣も、共産党の下に置かれることとなるので、国家元首や首相よりも、党主席や党書記長の方が強い権力を有することとなる。ソ連の場合は共産党の最高権力はスターリン以来、慣例として書記長(書記局の長、一時期は第一書記と言われた)が持っている。
 ソ連以外の社会主義国でも、共産党(名称は様々で、労働者党などと言う場合も多い)の一党独裁体制がとられていたが、1989年の東欧革命、91年のソ連崩壊で東欧諸国では現在では多党制が採られている。中国は建前は複数政党も認めているが、現実は依然として共産党一党支配が続いている。

国際社会での承認

 ヨーロッパでファシズム・ドイツが台頭した1930年代のソ連は、スターリン体制のまっただ中にあった。資本主義世界の世界恐慌の影響を受けず、第1次五カ年計画(1928~32年)に引き続き、第2次五カ年計画(1933~37年)を推進し、1936年にはスターリン憲法を制定し共産党一党支配を確立させた。またこの間、1933年にはアメリカがソ連を承認1934年にはソ連の国際連盟加盟が実現して国際社会に参加することとなった。

人民戦線戦術への転換

 ナチス=ドイツ、イタリアのファシスト政権、日本の軍国主義の中国侵略など、ファシズムの動きが強くなると、ソ連は1935年7月のコミンテルン第7回大会で、反ファシズム人民戦線路線に方向転換し、人民戦線の支援に乗り出した。フランスとの間では1935年5月に仏ソ相互援助条約締結すると、反発したドイツは翌1936年3月、ロカルノ条約を破棄して緊張が高まった。1936年7月、スペイン戦争が起こると、ファシズムとフランコ軍と戦うスペイン人民戦線の共産党に対し、積極的な軍事支援を行った。  またアジアにおいては1937年7月の盧溝橋事件で日中戦争が始まると、中国国民政府(蔣介石政権)との間で日本との共同防衛を目的として、1937年8月に中ソ不可侵条約を締結し、その後も重慶の武器などの支援を行った。

宥和政策への不信

 しかし、一方で1935年の英独海軍協定締結や、1938年のミュンヘン会談でのミュンヘン協定などのイギリスの宥和政策にはスターリンは強い不信をもち、1939年8月23日、一転してドイツと手を結ぶ独ソ不可侵条約を締結して世界を驚かせた。その秘密議定書で、スターリンはヒトラーと取引し、ポーランドの分割、バルト三国の併合などを承認させた。

スターリンによる大粛清

 スターリンは1936年にスターリン憲法制定に成功、ソ連共産党内の権力闘争で勝ち残ってスターリン体制を作り上げたが、ソ連を巡る国際情勢は、西方でのナチス=ドイツ、東方での日本軍国主義の進出(1931年の満州事変により1933年には満州国を建国、ソ連と直接国境を接することとなっていた)という脅威にさらされていた。その中で社会主義革命路線を堅持するために強大な権力集中が必要と意識され、それがスターリンの強烈な権力志向と結びついて個人崇拝が徹底され、反対派に対する粛清が行われた。これは1930年代から始まっていたが、特に1937~8年にかけて、スターリンの意向に叛いた多くの共産党党幹部が排除され、裁判なしに処刑されたり、シベリアの強制収容所送りとなった。それは軍人や一般市民にもおおび、秘密警察による監視が続き、政治行動の自由や言論の自由が奪われるという事態となり、大粛清とも言われた。

ソ連(3) 第二次世界大戦(大祖国戦争)

イギリスの宥和政策に不信を募らせ、1939年、独ソ不可侵条約を締結。第二次世界大戦が勃発するとドイツと歩調を合わせてポーランドに侵入し、さらにフィンランドとの戦争に踏み切り、国際連盟を除名される。しかし、スターリンとヒトラーの提携は利害の対立から決裂し、1941年6月、独ソ戦が始まる。

第二次世界大戦の開戦

 スターリン独裁体制下にあるソ連は、独ソ不可侵条約でヨーロッパ方面の安全保障を確保した上で、アジアでは日本軍とソ満国境でにらみ合い、1939年5月にはノモンハン事件で衝突し、日本の関東軍に大きな打撃を与えた。しかし、ヨーロッパ側での危機が強まったため、まもなく停戦した。ノモンハン事件はその実態がソ連崩壊後に明らかになり、ソ連側も相当大きな損害を蒙っていたことがわかってきた。

ポーランド侵攻とフィンランド侵略

 1939年9月、ナチス=ドイツがポーランド侵攻を開始して第二次世界大戦が始まると、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ソ連軍もポーランド侵攻を実行し、たちまち東半分を占領た。ソ連はポーランドをドイツと共に分割支配し、さらにフィンランドに国境地帯の割譲と基地提供を要求して拒否されると11月にはソ連=フィンランド戦争に踏み切った。国際連盟はこの行為を侵略と断定し、ソ連は除名された。それでもソ連は、1940年にはバルト三国を併合し、その領土的野心をあからさまにした。ソ連の侵攻した地域は第一次世界大戦前のロシア領である西ウクライナやベラルーシなどにあたり、ソ連側の言い分ではブレスト=リトフスク条約でドイツに割譲した土地を奪い返したのであるというが、かつてのロシア帝国の版図を回復するのがその実態であった。しかし、この時1940年3月~4月、ソ連軍が抵抗するポーランド将兵を多数虐殺したというカチンの森事件が戦後明らかとなりスターリン体制下のソ連の責任が問われている。

独ソ戦の開始

 このようにドイツとの秘密協定によって東ヨーロッパで領土を拡大したソ連であったが、ドイツとの提携が続くとは考えられなかった。ドイツが東ヨーロッパに「生存圏」を拡大しようとするのはヒトラーの従来の主張であったからである。西部戦線はフランスを降伏させたものの、イギリス上陸は出来ず戦線が膠着したため、ドイツ軍h1941年4月に方向を転じてユーゴスラヴィア・ギリシアに侵攻した。スターリンは対独戦を決意し、同月日ソ中立条約を締結して兵力をヨーロッパ側に集中させた。しかし、スターリンは不可侵条約がある以上、ドイツ軍の侵攻はすぐには行われないだろうと判断した。
 スターリンの予測を反して、ドイツは1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破棄し宣戦、独ソ戦はドイツの奇襲という形で開始された。準備不足であったソ連軍は大きな被害が出て、ドイツ軍がポーランド東部、ウクライナに侵攻するのを許してしまった。独ソ戦の開始によって第二次世界大戦は大きな転機を迎え、ソ連はイギリス・アメリカとの提携に踏み切ることとなる。一方、日本は、再び北進論が台頭したが、日中戦争の打開には東南アジアへの進出が必要という南進論も依然として強く、結局南進を国策とすることに決定し、1941年12月に真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入する。

大祖国戦争

 ソ連は1941年7月に英ソ軍事同盟を成立させ、イギリス・フランスとの連携に踏み切り、1941年8月にF=ローズヴェルトとチャーチルの大西洋憲章が発表されるとそれを支持し、連合国を構成することとなった。そのため、ソ連は1943年5月15日にコミンテルンを解散させ、英仏への協力姿勢を明らかにした。
 独ソ戦でロシア領深くドイツ軍を侵攻させたヒトラーの意図は、生存圏の拡張だけでなく、ゲルマン民族の優越を信じ、劣等民族であるスラヴ民族を絶滅する絶滅戦争という様相が強かった。それを迎え撃つスターリンのソ連は、この戦争を「大祖国戦争」と名付けて、祖国と民族を守る戦いであると訴え、兵力の根こそぎ動因で立ちむかった。その結果、独ソ双方に膨大な人的犠牲を生む未曾有の戦争となった。
 ドイツ軍はレニングラード、モスクワを目標に進撃し、一時は目前まで迫り危機にさらされたが、次第に戦線が拡散すると、ドイツ軍は方向を南部に変え、スターリングラードに向かった。ドイツ軍のねらいはバクー油田などの獲得という具体的な目標もあったと考えられる。スターリングラードの戦い1942年9月13日から始まり、ドイツ軍は猛攻によって中心部を占領したものの、補給線が延びきって孤立に陥ってしまい、ソ連軍がそれを包囲攻撃する形となった。冬に入り、装備・食料が不足し、ドイツの現地軍は撤退を要請したがヒトラーはそれを許さず、ついに1943年2月2日に、レニングラードのドイツ軍は降伏した。これによってドイツ軍の進撃は停まり、ソ連軍の反撃が開始されたが、その後も両軍は戦車、装甲車を主力にて広大なロシアの原野で大規模な衝突をくり返し、兵士だけでなく一般市民にも膨大な犠牲が出た。

連合国首脳会談

 1943年11月28日のテヘラン会談ではスターリンは初めてF=ローズヴェルトチャーチルとの連合国首脳会談に臨み、ヨーロッパの西部で第二戦線を形成することを強く要求し、見返りとして対日参戦も協議した。第二戦線とは、東側でソ連軍と戦うドイツ軍に対し、その背後からアメリカ、イギリスが攻撃を開始することでソ連軍の負担を少なくするねらいだった。しかしスターリンとチャーチルはポーランド問題では思惑が対立し、具体的な合意は得られず、いずれもその後の課題として残った。

大戦の終結

 1944年6月には米英主体の連合軍がノルマンディーに上陸、第二戦線も開かれ、東西からドイツを挟撃する形となり、連合軍の勝利の見通しがあきらかになった。ついで1945年2月のヤルタ会談ではドイツの戦後処理と国際連合の設立で合意し、ソ連は対日戦への参加を約束した。このヤルタ会談は、戦後の米ソの均衡による世界秩序という体制をヤルタ体制と言うほど、戦後を規定する重要な会議となった。しかし、このころから米ソ両国は大戦後の国際政治での主導権を巡って激しく牽制しあうようになった。
 スターリンは、ドイツ軍を追撃しながら東欧諸国を次々と解放し、ソ連にとって都合のよう政権を樹立するように努めていった。それぞれ事情は異なるものの、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ルーマニアなどに次々と共産主義政権が成立していった。ドイツに侵攻したソ連軍は、アメリカ軍・イギリス軍に先立ってベルリンの占領に成功し、1945年4月30日にはヒトラーを自殺に追いこみ、5月7日はドイツ軍を降伏させた。

対日戦の開始

 ドイツ降伏を受けて、ドイツの戦後処理とともに残る日本との戦いを終結させるため、1945年7月17日からポツダム会談が開催され、スターリンが出席、ドイツの分割統治などのポツダム協定に署名した。同時に日本への無条件降伏を勧告するポツダム宣言が出されるとソ連は日ソ中立条約があったので署名国にはならなかったが、階段の中でスターリンは日ソ中立条約を破棄して対日参戦することとを約し、千島列島の占有を確保した。
 日本がポツダム宣言を無視する態度を取ると、アメリカ(大統領はトルーマンに替わっていた)は8月に日本の広島・長崎で使用した。ソ連は米ソのとの約束通り、8月8日にソ満国境、樺太千島などで一斉に日本軍と交戦し、一気に満州国を制圧した。アメリカが原子爆弾の開発を急ぎ、また日本の敗北が明白であったのにも関わらず使用したのは、戦後のソ連に対する軍事力の優位を確保しようとする意図があったと考えられ、またソ連の対日参戦も戦後の国際政治で発言権を確保するために行われたという側面がある。

大戦後のソ連

 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、第二次世界大戦の交戦国の中で最大の2060万人の死者を出した。特にナチス=ドイツの侵攻を受け、大きな犠牲を払って国家を守ったという自負から、かつてのナポレオンを撃退した祖国戦争になぞらえ、大祖国戦争と言っている。多大な犠牲を払いながら勝ち抜いた戦争の指導者としてスターリンの権威は確固たるものとなり、その独裁体制は戦後も継承さる。また、世界大戦でソ連の勢力圏となった東欧諸国はそれぞれ、共産党政権が作られ、軍事的、経済的結びつきを強めていった。その共産圏の軍事体制はイギリスの前首相チャーチルが「鉄のカーテン」といって非難し、西側陣営も結束を強め、いわゆる東西冷戦の時代に向かうこととなる。

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ソ連(4) 東西冷戦

ソ連は第二次世界大戦で最大の犠牲者を出し、またその犠牲を背景として戦後世界に大きな発言権を確保、国際連合の安全保障理事会の常任理事国となった。戦後もスターリン体制を維持し、ドイツとの戦争で獲得した東ヨーロッパでの主導権を発揮し、次々と共産党政権を支援して樹立させ、西側の経済復興に対抗してコミンフォルムを結成するなど、東西冷戦に突入していく。ヨーロッパにおいてはドイツ問題が最も尖鋭な東西対立の場面となった。スターリン体制は大戦後も強大な独裁権力を維持し1953年の死去まで続く。その死後、集団指導体制に入ったが、スターリン体制の維持は困難となり、1956年のスターリン批判に至る。

 1929年に始まり、第二次世界大戦と戦後の東西冷戦下のソ連を一貫して指導したソ連共産党スターリンの体制は1953年の死去まで続く。第二次世界大戦での勝利、厳しい冷戦に耐えてきたことから、ソ連国内では公式に「発達した社会主義」に達しているとされ、その権威は揺るぎなきものとされた。

東西冷戦

 第二次世界大戦はアメリカ・イギリスに協力して連合国の一員として戦い、戦後の国際連合では常任理事国の1国として主要国の位置を占めた。しかし、共産主義ソ連の勢力の伸張を危惧するアメリカ・イギリスとの対立は次第に表面化し、1946年3月のチャーチルの鉄のカーテン演説あたりから、東西冷戦の様相を呈してきた。
マーシャル=プランとコミンフォルム ソ連軍の力によってドイツ軍の支配から解放された東ヨーロッパ諸国との関係を強めると、さらにギリシア・トルコに勢力を伸ばすとみたアメリカ大統領トルーマンは、1947年3月トルーマン=ドクトリンを発表してソ連に対する封じ込め政策を明確にし、同1947年6月にさらにマーシャル=プランでヨーロッパ諸国へのテコ入れを強めた。スターリンは対抗してヨーロッパの共産党に対する指導力を強めるため、同1947年10月にコミンフォルムを結成した。
 さらに、マーシャル=プラン受け入れをめぐって内部対立が起こったチェコスロヴァキアに介入して1948年2月、共産党によるチェコスロヴァキアのクーデターを実行させ共産党政権を樹立した。この動きに警戒を強めたイギリスなど西欧諸国は翌3月、西ヨーロッパ連合条約を締結し、集団防衛体制の構築を開始した。
ベルリン問題とコメコン 西側が1948年6月20日に西ドイツの通貨改革し、資本主義経済体制復活を強行すると、ソ連は同6月24日ベルリン封鎖を行い、ベルリン問題は東西冷戦の最も先鋭的な対立点となった。
 東欧諸国の足並みは必ずしも同一ではなく、1948年6月には独自路線を歩もうとしたティトーの率いるユーゴスラヴィア共産党はコミンフォルムを除名されている。東欧諸国の結束を強めるため、ソ連のスターリンは1949年1月、COMECONを結成して東側諸国の結束を強めた。
西側のNATO結成 ソ連の攻撃を警戒する西側諸国はアメリカに同調を求め、集団的自衛体制を構築するとして1949年4月に北大西洋条約機構(NATO)を結成した。ドイツにおける東西対立は、同年9月から10月にかけてドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し分断国家となった。このような軍事対立の進行の中で、ソ連は1948年から核兵器の開発に着手、1949年9月25日にソ連の核実験成功を公表した。

朝鮮戦争とソ連

 アジアでは1949年10月に中華人民共和国が社会主義国として成立したが、朝鮮半島の情勢が緊迫していたので、1950年中ソ友好同盟相互援助条約を締結してアメリカと日本に対抗する態勢をとった。
朝鮮戦争の勃発 1950年6月、朝鮮戦争勃発当時のソ連は、スターリン独裁体制のまっただ中にあり、前年に出現した共産党政権の中華人民共和国をなんとか守らなければならないと考え、国際連合の安全保障理事会の中国代表権を中華人民共和国に与えるべきであると主張し、中華民国(台湾の国民党政府)を支持するアメリカ・イギリス・フランスと対立していた。ソ連は他の4国に抗議の意味で安保理をボイコットする戦術をとっていた。
 冷戦といいながら、アジアでは両陣営の対立は実際の戦争として火を噴いた。6月に朝鮮戦争が勃発すると安保理はソ連を除く4ヵ国で開催され、北朝鮮の行為は侵略であり、ただちに国連軍を編成するという決議が成立してしまった。ソ連はボイコット作戦は不利であると気づき、8月には安保理議長の順番が回ってきたことを口実に安保理に復帰する。それに対してアメリカは、ソ連の拒否権行使を警戒して、11月に国連総会に働きかけ、「平和のための結集」決議を採択させ、安保理が機能しないときには総会が軍事行動を決定することができるようにした。なお、朝鮮戦争ではソ連は安保理の立場上、全面的な参戦はできなかったので、陸上部隊は派遣せず、少数の航空部隊の派遣、武器提供や物資支援にとどまった。

スターリンの死去と集団指導体制

 1953年3月5日、スターリンは死去し、共産党指導部は集団指導体制をとり、首相はマレンコフ、副首相兼内相をベリヤ、共産党書記はフルシチョフ、国防相がブルガーニン、外相はモロトフという布陣となった。しかしその内部はモロトフに代表される結党以来の古い体質を持つスターリン派と、フルシチョフのような戦時に台頭した現実路線派などの対立があった。また内相ベリヤは間もなく独裁権力を握ろうとしたとして逮捕され、処刑された。またマレンコフも農業政策の失敗を理由に失脚し、55年にはフルシチョフ・ブルガーニン体制ができあがった。
 1953年、アメリカでは共和党のアイゼンハウアーが大統領となりダレス国務長官の主導するまき返し政策といわれる対ソ強硬策がとられようとしたが、スターリンの死去を受けて対決ムードは一時後退し、朝鮮戦争でも休戦協定が成立した。

ワルシャワ条約機構の成立

 1955年に西側が西ドイツ再軍備とその北大西洋条約機構(NATO)への加盟を認めると、それに対抗すべくソ連は共産圏諸国との間で同1955年5月、ワルシャワ条約機構を結成し結束を強めた。こうして、NATOに結集するアメリカを中心とした西側諸国の資本主義陣営と、ソ連を中心とした社会主義国のワルシャワ条約機構という対立構造ができあがり、それぞれが核武装を進めて緊張はさらに高まった。

平和共存の模索

 それでもスターリン後の集団指導体制をとるようになったソ連は西側との全面対決は避けるため、1955年7月のジュネーヴ4巨頭会談にはブルガーニン首相とフルシチョフ第一書記がは参加して初めて西側首脳との話し合いに応じ、平和共存への第一歩を踏み出した。

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ソ連(5) 非スターリン化の時代

1956年、フルシチョフによるスターリン批判が行われ、国内では雪どけ、対外的には平和共存の気運が高まったが、本質的な体制の転換には至らず、共産党官僚の硬直した支配と経済の停滞が続いた。西側とは平和共存が模索されたが、スターリン批判に反発した中国共産党との中ソ対立や、東欧諸国での自主路線の動きが始まる。キューバ危機の措置に失敗したフルシチョフは失脚し、次いで権力を握ったブレジネフ時代には、ソ連の体制と経済の硬直化が進み、1979年のアフガニスタン侵攻でその矛盾が表面化する。

スターリン批判

 1956年2月、ソ連共産党第20回大会において、フルシチョフ第一書記によるスターリン批判が行われ、スターリンの非人間的な独裁政治、個人崇拝、西側を否定する強硬な姿勢など、スターリン個人に対する批判が行われたが、共産党一党支配という基本的な体制は否定されることはなかった。

フルシチョフ政権

 1956年~64年のフルシチョフ政権は、西側との平和共存を図りつつ、核抑止論にたって核兵器の開発、宇宙開発をアメリカと競った。日本との間で日ソ共同宣言を発表し、国交を回復したのも1956年10月であった。その一方でコミンフォルム解散したが、スターリン批判を機に起こった1956年6月ポーランド反ソ暴動と、1956年10月ハンガリー反ソ暴動には厳しく対処して弾圧した。

中ソ対立・キューバ危機・フルシチョフ解任

 スターリン批判と平和共存への転換に対して中国共産党の毛沢東は、修正主義であるとして厳しく非難し、中ソ対立が始まることとなった。ソ連内部では「雪どけ」といわれる自由化の端緒が見られたが、1962年10月22日キューバ危機の不手際などの責任をとらされて1964年10月フルシチョフ解任となり、改革の機運は失われた。また、中ソ対立によって東西冷戦構造も大きく変質する事となった。

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ソ連(6) ブレジネフ政権と停滞の時代

キューバ危機の措置に失敗したフルシチョフは失脚し、次いで権力を握ったブレジネフ時代には、ソ連の体制と経済の硬直化が進み、1979年のアフガニスタン侵攻でその矛盾が表面化する。

ブレジネフ政権

 1964年~82年は、ブレジネフ共産党第一書記(66年から書記長)とコスイギン首相のコンビとなったが、実権はブレジネフが握り、その権力は18年間に及び、安定はしたが停滞した時代といわれた。特に経済面での立ち後れは著しく、官僚制の悪弊が社会の閉塞感を強め、反体制的な言論は厳しく弾圧された。
ブレジネフ=ドクトリン 1968年のチェコスロヴァキアの自由化運動であるプラハの春に対しては、ブレジネフ=ドクトリンで「制限主権論」を基づく軍事介入を行い、社会主義圏をソ連が統制する姿勢を変えず、むしろその姿勢を強化した。ブレジネフ政権は、フルシチョフ時代から始まった中ソ対立でも強硬姿勢を崩さず、1969年3月には珍宝島(ダマンスキー島)事件で中国と武力衝突を起こした。
デタントから新冷戦へ  一方で70年代はアメリカとの緊張緩和(デタント)を進め核軍縮交渉には一定の前進を見たが、1979年にはアフガニスタンに侵攻し、社会主義政権の維持を図った。80年代前半になるとアメリカにレーガン政権が登場して対決色が強まり、再び冷戦の緊張が戻って新冷戦の時期になる。

ソ連社会の停滞

 ブレジネフ政権は18年の長期に及び、激動のソ連史の中でも「安定」した時代であったが、その反面、共産党官僚による支配はますます官僚的になり、人事は停滞して「老人支配」と言われるようになった(ブレジネフ政権末期の1981年の政治局員の平均年齢は69歳だった)。そのような中で、革命後に成長した層は活動の場は奪われ、社会主義建設という同志的連帯感や社会への参画意識は次第に薄れていった。当時西側諸国は技術革新時代を迎えていたがソ連の立ち後れが目立ち初め、何よりも経済成長が停滞し、市民生活も閉塞感に覆われるようになった。そのような中で一部の党高級官僚(ノーメンクラツーラという)は別荘を持つなどの経済的に恵まれた地位を縁故的に維持しており、特権階級化した。
 改革の試みがなかったわけではなく、コスイギンは1966年から一部計画経済の見直しを提唱し利潤導入方式経営といわれる改革に着手したが、保守派の反対で70年代には挫折してしまった。

自由を求める動き

 1960年代後半から80年代のブレジネフ政権下のソ連において、自由を求める声は反体制知識人といわれる少数の人々から起こったが、サハロフ博士や作家のソルジェニーツィンらは監禁されるか国外追放となってしまい、自由な言論は抑え込まれた。
 このようなソ連の停滞、硬直化を揺り動かす動きはむしろ東欧諸国の自由化を求める運動に触発される形で始まった。その最初の動きが1980年に始まるポーランドの民主化であった。
 ソ連国内でも改革の必要が意識されるようになり、1982年のブレジネフの死去してその機会を迎えたが、アンドロポフチェルネンコという新指導者が相次いで死去したことから、1985年に54歳というソ連指導者としては異例の若さのゴルバチョフが書記長に選任されて一気に改革が実行されることとなった。

ソ連(7) ペレストロイカから消滅へ

1985~91年、ゴルバチョフ政権はグラスノスチとペレストロイカを掲げて改革にあたり、新思考外交を掲げて外交政策を大胆に改めて対話に転じ、89年の東欧革命を経てのマルタ会談で冷戦の終結を宣言した。さらにゴルバチョフ政権は市場経済と複数政党制の導入をはかり、90年に大統領制に移行したが、翌91年8月、共産党保守派のクーデターが発生、クーデターは鎮定されたがゴルバチョフがソ連共産党の解散を決定してソ連邦は解体され、ロシア革命から74年、ソ連成立から69年で、歴史に幕を下ろした。

ゴルバチョフのペレストロイカ

 1985年3月、チェルネンコの死をうけて、ゴルバチョフがソ連共産党書記長となった。ゴルバチョフは、ブレジネフ時代のソ連の経済と社会の停滞を打破するため、「グラスノスチ(情報公開)」と「ペレストロイカ(改革)」を掲げて社会主義計画経済の一定の修正を図り、市場経済の導入を図った。就任間もない86年に起こったチェリノブイリ原発事故はソ連社会のひずみを露呈させることになり、改革を早めざるを得ない状況を出現させた。
 ゴルバチョフ政権は、政治面での民主化を進め、1989年に複数候補者選挙制を導入し、90年には共産党一党支配を廃止して複数政党制に改めた。

冷戦の終結

 外交では「新思考外交」をかかげて制限主権論を放棄し、緊張緩和(デタント)を復活させてアメリカなど西側諸国との対話をはかり、また中ソ関係の正常化を実現させた。ソ連におけるゴルバチョフ政権の新ベオグラード宣言は、東欧諸国の民主化を一挙に進め、1989年11月のベルリンの壁の開放に象徴される東欧社会主義の崩壊、東欧革命をもたらした。同年末にはアメリカのブッシュ大統領との間のマルタ会談で東西冷戦の終結を宣言した。

ソ連(8) 1991年 解体

バルト三国のソ連邦からの分離独立宣言を機に、連邦制の維持をはかる共産党保守派の危機感が強まり、1991年8月に保守派がクーデターを決行、ゴルバチョフの排除とソ連邦の維持を図った。クーデターは失敗し、保守派は排除されたが、ゴルバチョフはこの混乱の責任をとる形でまず党書記長を辞任して、さらにソ連共産党の解党を決めた。12月にロシア、ウクライナ、ベラルーシがソ連邦を解体し独立国家共同体(CIS)を結成することで合意したため、ゴルバチョフはソ連邦大統領を辞任し、ソ連邦は解体し、終わりを告げた。

ペレストロイカの進展と東欧革命の波及

 ペレストロイカを進めたソ連のゴルバチョフ政権は、1990年3月に大統領制に移行し、人民代議員大会でゴルバチョフを大統領に選出した。2月にはゴルバチョフは共産党一党支配を改めることを表明し、党と国家の関係は形式的に分離した。続いて問題は連邦制を維持するかどうかにかかってきた。前年1989年の東欧革命の余波は、ソ連邦を構成する民族に分離独立の刺激を与え、まずバルト三国が動き出し、1990年3月にリトアニア、ついでラトヴィア、エストニアが相次いで独立を宣言した。6月には肝腎のロシア共和国が、エリツィンの指導のもとで主権を宣言し、緊張が高まった。

ゴルバチョフの連邦制維持構想

 1991年に入り、両派の対立は次第に深刻化し、バルト三国では保守派が独立反対の暴動を起こしたが、ゴルバチョフは適切な対応が出来なかった。ゴルバチョフは何とか連邦制を維持しようとして妥協を図り、各共和国の自主性を強めながらソ連邦は継続するという「新連邦条約」を構想し、3月に連邦維持について国民投票(バルト三国などは拒否)にかけたところ、76%の賛成を得た。ゴルバチョフは連邦制維持に自信を持ち、新連邦条約草案の作成に入った。

エリツィン、ロシア大統領に就任

 共産党の指導とソ連邦の維持を主張し、軍隊とも連携してゴルバチョフ大統領に反対していた保守派は危機感を強めた。4月にはゴルバチョフは日本を訪問したが、懸案の平和条約交渉は進展しなかった。6月にロシア共和国が直接選挙によってエリツィンを大統領に選出、ソ連大統領とロシア大統領の二人が同時に存在し、同じモスクワのクレムリンに同居する事態となった。

保守派クーデターの失敗

 そのような中で1991年8月19日、ソ連共産党の保守派クーデタが発生、ゴルバチョフは滞在先のクリミアの別荘に軟禁された。しかしモスクワ市民、メディアは一斉にクーデタ反対に立ち上がり、ロシア大統領エリツィンが市民の先頭に立ってクーデタ部隊の行動を阻止し、軍の主流もクーデタ不支持に転じたため失敗し、首謀者は逮捕された。ゴルバチョフは解放されたが、共産党の権威は全く落ちていたので、やむなく同年8月24日、書記長を辞任し、共産党そのものの解散を勧告、それによってソ連共産党は解党された。

ソ連の消滅

 ゴルバチョフはなおもソ連邦の維持を図ったが、1991年12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラヴ系三共和国首脳がミンスク郊外に集まって1922年のソヴィエト連邦条約の無効を宣言し、代わって独立国家共同体(CIS)を創設することで合意した。12月25日、ゴルバチョフ大統領が辞任、12月26日にソ連最高会議がソ連の消滅を宣言した。こうしてソ連邦は1922年以来、69年の歴史に終わりを告げた

CISとロシア連邦

 旧ソ連邦はCIS加盟国12ヶ国とバルト3国の15ヶ国に分解した。国土と人口の大部分はロシア連邦に属したので、国家としての旧ソ連(国連の代表権など)はロシア連邦が継承した。
 中央アジアではウズベキスタンカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンの5共和国が分離し、それぞれ主権国家としてCISに加盟した。

Episode まだ強い「ソ連」への郷愁

 『朝日新聞』2006年12月8日夕刊によると、ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を決めてから15年目にあたる8日、当時のエリツィン・ロシア大統領は「ローマやオスマン・トルコなどの帝国と同様、ソ連の崩壊は必然だった」と語り、自らの決定を改めて正当化した。ロシアの民間世論調査機関によるとロシア国民の61%が今もソ連崩壊を「残念」だと見ている。崩壊が「避けられた」と見る国民も59%に上る。その背景には「一部権力者の気まぐれでソ連の国家体制と経済が破壊され、民族紛争など様々な苦難を招いた」という批判があるという。<『朝日新聞』06年12月8日夕刊>
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書籍案内

E.H.カー/塩川伸明訳
『ロシア革命―レーニンからスターリンへ』
1979 初版
2000 岩波現代文庫刊

木村英亮
『ソ連の歴史 増補版』
1996 山川出版社

松戸清裕
『歴史の中のソ連』
世界史リブレット92
2005 山川出版社

松戸清裕
『ソ連史』
2011 ちくま新書