イギリスの女性参政権
1860年代のJ=S=ミルの提唱から女性参政権を要求する運動が始まり、穏健派と過激派の2グループで運動が展開された。第一次世界大戦末期の1918年に30歳以上の戸主の女性に参政権が与えられ、28年に男女平等(21歳以上)の普通選挙権となった。
イギリスは議会制度先進国であり、ピューリタン革命の権利の章典以来、人権についての認識は早くからあったが、女性の権利についての理解は、他のヨーロッパ諸国と同じように進んでいなかった。ようやくフランス革命の影響を受けたウルストンクラフトが1792年に『女性の権利の擁護』を発表して女性解放運動が始まり、女性の参政権にも言及したが、フランス革命の後退と共にイギリスでも議論は低調になった。
ようやく産業革命が進行し、ブルジョワジーの台頭が顕著になった19世紀に入り、自由主義的改革の一環として選挙法改正も議論されるようになり、1832年の第1回選挙法改正に始まり、徐々に選挙権は拡大されていった。しかし、女性参政権には及んでいなかった。哲学者のジョン=スチュアート=ミル は1865年の下院議員選挙に立候補し「女性参政権」を掲げて当選し、さらに『女性の隷従』を出版して広く女性解放を訴えたのが具体的な女性参政権運動の始まりとなった。1867年の第2回選挙法改正が審議されたときも、ミルは女性参政権を認める修正案を提出したが否決された。それをきっかけに女性参政権を求める団体が生まれたが、世論全体を動かすには至らなかった。
この戦争での女性の活躍が、戦争前の女性参政権獲得闘争では達成できなかった女性の投票権を実現させた、とよく言われる。戦前のパンクハーストの運動は、穏健な男女双方から顰蹙を買っていたのかもしれないが、それが無駄であったとは言えないだろう。
フォーセットは1865年にジョン=スチュアート=ミル の演説を聞いて女性にも参政権が認められるべきだと考えるようになり、政治家で経済学者であったヘンリ=フォーセットと結婚してから経済学も学び、女性参政権運動家・経済学者として活動するようになった。1897年、彼女はそれまでの婦人参政権団体を再統合して婦人参政権協会全国同盟(NUWSS)を組織し、知識人や有産階級の女性を集めてミルの所論に従い、主としてパンフレットの発行やロビー活動などの温和な手段で女性参政権実現をめざした。その運動は1918年の30歳以上の女性(戸主又は戸主の妻のみという条件が付いた)への参政権付与となって成果を生み、1928年には男女間の違いが無くなりともに21歳の普通選挙が実現した。その翌年、フォーセットは死去した。
ようやく産業革命が進行し、ブルジョワジーの台頭が顕著になった19世紀に入り、自由主義的改革の一環として選挙法改正も議論されるようになり、1832年の第1回選挙法改正に始まり、徐々に選挙権は拡大されていった。しかし、女性参政権には及んでいなかった。哲学者の
二つの団体
19世紀末になって二つの性格の異なる団体が生まれた。一つはミリセント=ギャレット=フォーセットを会長とする婦人参政権協会全国同盟(NUWSS)、もう一つはエメリン=パンクハーストを指導者とする女性社会政治同盟(WSPU)だった。前者はミルの所説に従い、署名や講演会などの温和な運動を行ったが、後者はその運動にあきたらず、過激な行動で訴えることで有名になった。特に後者の女性運動家は自らをサフラジェット(Suffragette 、suffrage は投票権の意味)と称して、運動を展開した。パンクハーストの過激な運動
エメリン=パンクハーストは娘のクリスタベルやシルヴィアらと過激な抗議行動を展開した。その理屈は、女性は立法過程への参画を否定されていたのだから、それに従う必要も無い、ということで、男性が築いた財産を破壊することも許されるとして、窓への投石や建物への放火などを厭わず、逮捕されるとハンガーストライキで抵抗した。当初は労働組合運動とも結びついて組織的に行われたが、センセーショナルな活動に批判的なグループが離反したこともあって、次第に低調になっていった。ところが第一次世界大戦が勃発すると、パンクハーストとサフラジェットたちは運動を休止し、戦争に協力する姿勢を採った。第一次世界大戦と女性運動
第一次世界大戦が始まると、軍需品の生産に女性がかり出されるという総力戦が展開されたことから、政府はWSPUを利用するため投獄中のサフラジェット全員を釈放し、軍需相ロイド=ジョージを通じてパンクハーストに2000ポンドを与え、パンクハーストはその金で女性も戦争に奉仕する権利があるとして軍需工場で働くことを呼びかけるデモを行った。事実、戦争中に女性は軍需工場、電車・バスの車掌、男性が出征した後の会社の事務などに動員され、戦争を支えた。<村岡健次/川北稔編著『イギリス近代史(改訂版)』2003 ミネルヴァ書房 p.237>この戦争での女性の活躍が、戦争前の女性参政権獲得闘争では達成できなかった女性の投票権を実現させた、とよく言われる。戦前のパンクハーストの運動は、穏健な男女双方から顰蹙を買っていたのかもしれないが、それが無駄であったとは言えないだろう。
女性参政権の実現
第一次世界大戦中のロイド=ジョージ挙国一致内閣の時、1918年に成立した第4回選挙法改正では、国民代表法の修正案という形で「戸主又は戸主の妻である30歳以上の女性」に選挙権をあたえることが可決された。これがイギリスで最初の女性参政権であったが、このとき男性には21歳以上の普通選挙権が与えられていたので、男女間にはやはり差があった。この差が解消されて、男女平等の成人普通選挙権が成立するのは10年後の1928年の第5回選挙法改正でであった。 → アメリカの女性参政権News 女性参政権100周年
2018年は、イギリスで女性参政権が認められた1918年から100周年に当たっていた。イギリスではそれを記念し、女性参政権運動の先駆者として婦人参政権協会全国同盟(NUWSS)の初代会長であったミリセント=ギャレット=フォーセット(1847~1929)の銅像を、ロンドンのウェストミンスター国会議事堂の前に建設した。国会議事堂の前に女性の銅像が建つのもこれが最初だという。フォーセットは1865年に
映画 未来を花束にして
女性参政権運動家としては、フォーセットと同時代にエメリン=パンクハースト(1858~1928)がいるが、パンクハーストはフォーセットらの運動にあきたらず、過激な破壊活動まで敢えて実行した。こちらのほうは、女性参政権100年で顕彰されることはないらしいが、すでにロンドンの国会議事堂の隣にあるヴィクトリアタワーガーデンに銅像が建てられているという。2015年にイギリスで「未来を花束にして」(原題はSuffragette)という映画が作られ、日本でも公開された。平凡な主婦がパンクハーストらの運動に加わって成長していく姿を描いており、歴史的事実と時代の雰囲気をよく描いている。