女性参政権/男女平等選挙権
19世紀末のニュージーランドを始め、20世紀初頭に西欧に広がった。イギリスでは第一次世界大戦末期の1918年に女性参政権(30歳以上)が認められ、28年に男女平等(21歳以上)となった。アメリカでは1920年に憲法修正19条として女性参政権が認められた。
18世紀後半のヨーロッパで啓蒙思想の深まり、市民革命の勃発などの中から、自由・平等の思想が広がり、市民社会の成り立たせる原理として人権が意識されるようになった。当初は男性がその運動の主体であり、社会的・経済的な平等に続け政治的な平等の要求も男性を対照することが自明のこととされていた。しかし、フランス革命の進展は女性の人権をも自覚させ、長く男性中心の家父長制家族制度に縛られていた女性の解放(離婚の自由など)、社会的・経済的な平等(女性の財産権など)を求める声とともに、女性の政治への参加を求める声も起こり始めた。これらは広く女性解放運動と言える動きであるが、初めは散発的であり、ブルジョア社会の中でもすぐには認められなかったが、その中で19世紀に入ると組織的な女性参政権運動となっていった。
女性参政権運動は、18世紀からフランスで始まり、19世紀には労働組合運動・社会主義運動運動と結びついて運動が本格化した。世界で最初に女性参政権を認めたのは、1893年のニュージーランドであった。ついで20世紀に入り、オーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、ノルウェー(1913年)、デンマーク・アイスランド(1915年)、ソビエト=ロシア(1917年)、カナダ・ドイツ(1918年)で実現した。主要国では第一次世界大戦直後にイギリス・ドイツ(1918年)、アメリカ(1920年)、第二次世界大戦後にフランス・日本(1945年)となります。 → 男性普通選挙
J.S.ミル イギリスで明確に女性参政権を主張したのは、ジョン=スチュアート=ミルであった。彼は功利主義の理念の下、「女性参政権」を掲げて下院議員となり、その支援によって女性自身による女性参政権運動が始まった。19世紀末から20世紀初頭にM=G=フォーセットの婦人参政権協会全国同盟(NUWSS)、E=パンクハーストの女性社会政治同盟(WSPU)という二つの団体が運動を展開、特に後者は過激な行動で人びとの関心を集めたが、第一次世界大戦までに女性参政権を実現することはできなかった。
1918年の女性参政権実現 第一次世界大戦では女性も戦争に協力したということから、ロイド=ジョージ挙国一致内閣の下での、1918年の第4回選挙法改正で「戸主又は戸主の妻である30歳以上の女性」に選挙権があたえられた。男性は21歳以上の普通選挙権であったので不平等が続いたが、ようやく1928年の第5回選挙法改正で男女平等の普通選挙が実現した。 → イギリスの女性参政権
1920年の女性参政権実現 民主党ウィルソン大統領は女性参政権に反対していたが、第一次世界大戦に参戦したことで女性の戦争への貢献も期待するようになり、急速に気運が高まり、大戦後の1919年には下院で女性参政権を認める修正憲法19条が可決された。しかし上院の議決や各州の批准が遅れ、発効したのは1920年8月26日であった。アメリカでの女性参政権が意外に遅かったことに注意しよう。 → アメリカの女性参政権
1848年 男性普通選挙の定着 ようやく1830年代の七月王政の時期に産業革命が進行してブルジョワジーが形成されたことを背景に男性普通選挙の再開を要求する動きが強まり、それが1848年の二月革命(フランス)を呼び起こし、四月普通選挙で復活したが、女性は依然として排除されていた。男性普通選挙が定着した第三共和政の時期には憲法では認められていなかったものの、徐々に女性の権利への配慮もなされるようになり、1884年には裁判離婚制度が認められるなどの改革が行われた。女性参政権運動も1880年代は組織化も始まり、1901年以降はたびたび法案が提出され、下院は通過しながら保守的な上院で否決されると言った事態が続いた。
第一次世界大戦でも実現せず 第一次世界大戦では女性の貢献を讃える立場から女性参政権支持も多くなったが、イギリス・アメリカと異なり、下院での反対も根強く、フランスでは実現しなかった。女性参政権に反対する理由としてあげられたのは、「女性の手は投票用紙にふれるよりはむしろ、接吻されるためにある」とか、「投票すると育児を怠り、夫の意見に逆らうようになる」「投票すると女性が“いやな女”になる」などがあげられている。また夫に従うべき妻は、夫が投票するのだから充分である、とか、夫が戦争で死んだ場合にだけ認めようとか、投票は権利ではなく恩恵であると捉える意見も多かった。
1945年の女性参政権実現 ようやくフランスで女性参政権が認められるのは1944年4月21日の臨時政府の措置令によってであった。総選挙が実施されたのは1945年10月2日であった。
フランスで最初の男性普通選挙(世界最初)が行われたのが1792年、それが定着したのが1848年であったので、女性参政権はそれより約100年遅れたことになり、イギリスやアメリカが第一次世界大戦後に実現したのに比べても約4半世紀半の遅れがあった。<辻村みよ子・金城清子『女性の権利の歴史』岩波市民講座人間の歴史を考える⑧ 1992 岩波書店 p.74-75>
社会主義と女性解放運動 ドイツ帝国時代のビスマルクの弾圧の中で活動を展開した社会民主党のベーベルは1879年に『女性と社会主義』(婦人論)を発表し、女性の解放は労働者の解放と社会主義社会への体制変革によって可能となると主張し、エンゲルスは1884年の『家族・私有財産・国家の起源』で女性が家夫長制度と資本主義社会によって二重に搾取されていると分析して、女性解放運動は社会変革と結びつくこととなった。
ツェトキン、国際女性デーの提唱 社会民主党員のクララ=ツェトキン(1857-1933)は1892年から国際社会主義女性会議を組織し、1910年8月の第2回第2インターナショナルコペンハーゲン大会で、アメリカの女性参政権運動を継承し、世界的な女性解放運動の統一行動日として国際女性デーを開催するとすることを提唱、1911年の3月8日にそれが世界各地で開催され、100万の女性が参加した。しかし、第一次世界大戦への対応をめぐって社会民主党は分裂、ツェトキンはローザ=ルクセンブルクとともにドイツ共産党に加わったが、ドイツ革命は失敗、ローザ=ルクセンブルクは殺害された。ツェトキンはその後ワイマール共和国で議員を務め、共産党が非合法となるとソ連に亡命しコミンテルンで活動した。<マルタ・ブレーン文・イェニ・ヨルダン絵/枇谷玲子訳『ウーマン・イン・バトル―自由・平等・シスターフッド』2019 合同出版 p.64-66 などによる>
ワイマール憲法 ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北したことによって、1919年1月、憲法制定議会の選挙が男女平等の普通選挙が実施され、同年8月、新しい憲法としてワイマール憲法が制定された。ワイマール憲法は当時最も進んだ憲法と言われ、社会権を保障したことで重要であるが、男女平等の選挙権と公民権や婚姻における両性の平等が明文化され、女性の権利がほぼ保障された。しかしワイマール共和国はブルジョワ共和制国家としてファシズムの台頭を許し、1933年にナチスは男女平等の普通選挙によって「合法的に」権力を獲得した。しかしヒトラーの総統国家は、政党を非合法化して活動を禁止し、議会制や民主主義は形骸化して国家意思は総統個人の意志となり、必要とあれば国民投票で信を問うという体制を作り上げた。女性は全国婦人団体に組織化され、総裁国家に組み込まれた。
1917年の十月革命(十一月革命)によって権力をにぎったレーニンのボリシェヴィキ政権のもとで、1918年の憲法では「社会主義的基本権」が保障されるのは勤労・被搾取人民であるというマルクス主義に基づき、選挙権・被選挙権は労働資格者・政治資格者に与えられ、それには勤労女性および家事労働に従事する女性が含まれた。また男女同一賃金原則が保障された。その一方で非勤労階級(資本家・地主・聖職者など)からは選挙権・被選挙権は剥奪された。またそれまでのロシア社会でギリシア正教教会の管轄下にあった婚姻や離婚は自由とされ、夫婦は平等となった。
スターリン憲法 その後、1922年にソ連邦が成立し、スターリン体制が確立した1936年に制定された、いわゆるスターリン憲法では社会主義化が達成されたとして、選挙権剥奪規定はなくなり、労働者と農民、勤労インテリゲンツィアは平等な諸権利、市民権を持つと規定され、女性は経済的・国家的・文化的などすべての分野で男性と平等であり、労働・賃金・社会保障・教育などでも同等の権利が認められた。しかし、スターリン体制下においてはしだいに家族を通して国家統制を図ろうという動きが強まり、封建的な意識を変革しないままの社会では事実上の男女不平等が残存していた。また中絶の禁止、離婚の制限などが復活し、息苦しい社会になったことも否めない。<辻村・金城『前掲書』 p.83-85 などによる>
日本 日本は1889年に大日本帝国憲法が成立し、立憲君主国の議会制国家となったが、議会を構成する議員の選挙権は直接国税15円以上を納入する男性のみとされる制限選挙であり、女性の参政権は認められていなかった。いわゆる「大正デモクラシー」の時期の1924年に市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟(25年に婦選獲得同盟に改称)を結成して運動を開始した。1925年に、25歳以上の男性に選挙権が与えられる「普通選挙法」が成立したが、同時に労働者層の政治参加を恐れ、牽制するために「治安維持法」が制定された。それでも女性参政権は認められなかった。
日本の女性参政権は第二次大戦後の民主化の最も重要な項目としてあげられ、1945年12月の改正選挙法で実現し、満20歳以上の男女による平等な選挙制度となった。翌年4月の総選挙では婦人議員が39名当選した。ここで成立した新議会で日本国憲法が制定された。日本国憲法は日本で始めて男女平等の選挙制度によって成立した議会で制定されたものである。
それは、それ以前の各国の国家意思の決定には女性は加わっていない、つまり責任はないことを意味する。ということは、第一次世界大戦までの各国が行った国家間の戦争は、その意志決定に関わった国民は男性のみであり、女性の関われないところで決められ、実行された、ということだ。第二次世界大戦では連合国側は別として、枢軸側はドイツでは議会制度は事実上成り立っていなかったし、日本・イタリアでは女性参政権は認められていなかった。
今までの戦争という歴史に女性が一切責任がない、などとは言えるはずはないが、少なくとも議会政治が機能するようになった国家において、女性に参政権が無かったと言うことはその国家意思の決定に責任はなかったと言える。極端な話、女性は「戦争は男が勝手にやったことだ!」ともっと怒って良いのは事実である。こう考えれば、議会制度のもとで選挙によって国民が国家意思を決定するという現代主権国家のシステムの中で、女性参政権の意義はとてつもなく重要であることが判る。このことは女性参政権の歴史的意義として重視して良いのではないだろうか。
女性参政権運動は、18世紀からフランスで始まり、19世紀には労働組合運動・社会主義運動運動と結びついて運動が本格化した。世界で最初に女性参政権を認めたのは、1893年のニュージーランドであった。ついで20世紀に入り、オーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、ノルウェー(1913年)、デンマーク・アイスランド(1915年)、ソビエト=ロシア(1917年)、カナダ・ドイツ(1918年)で実現した。主要国では第一次世界大戦直後にイギリス・ドイツ(1918年)、アメリカ(1920年)、第二次世界大戦後にフランス・日本(1945年)となります。 → 男性普通選挙
イギリス
ピューリタン革命の過程で権利の章典が制定され、王権の制限や議会の権利の確立は世界に先駆けていたが、社会改革の点では遅れていたイギリスでは、女性の権利に対する自覚が芽生えるのは遅かったと言える。フランス革命やアメリカ革命に加わったトマス=ペインの影響を受けたウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を発表したのは1792年だった。イギリスの主流はフランス革命批判を展開したエドモンド=バークの保守主義にあったと言える。それでも産業革命の進行はブルジョワジーの台頭、さらには労働者層の形成へと社会を変質させ、19世紀にはそれぞれの政治的要求を議会政治の中で実現しようという3次にわたる選挙法改正が行われた。しかし、その場合でも女性参政権は認められることはなかった。J.S.ミル イギリスで明確に女性参政権を主張したのは、ジョン=スチュアート=ミルであった。彼は功利主義の理念の下、「女性参政権」を掲げて下院議員となり、その支援によって女性自身による女性参政権運動が始まった。19世紀末から20世紀初頭にM=G=フォーセットの婦人参政権協会全国同盟(NUWSS)、E=パンクハーストの女性社会政治同盟(WSPU)という二つの団体が運動を展開、特に後者は過激な行動で人びとの関心を集めたが、第一次世界大戦までに女性参政権を実現することはできなかった。
1918年の女性参政権実現 第一次世界大戦では女性も戦争に協力したということから、ロイド=ジョージ挙国一致内閣の下での、1918年の第4回選挙法改正で「戸主又は戸主の妻である30歳以上の女性」に選挙権があたえられた。男性は21歳以上の普通選挙権であったので不平等が続いたが、ようやく1928年の第5回選挙法改正で男女平等の普通選挙が実現した。 → イギリスの女性参政権
アメリカ
アメリカ合衆国では『独立宣言』で人間の平等が謳われたものの、黒人・インディアンとともに女性も参政権が認められないなど、差別が平然と行われていた。1830年代に女性解放運動が始まり1848年のセネカ・フォールズ集会はその第一歩だった。運動が本格化するのは南北戦争後で、1869年に初めて女性参政権を認める憲法改正案が提出されたが否決された。州の独立性の強いアメリカでは、州ごとに女性参政権を求める運動が行われるようになったが、1901年に結成されたアメリカ社会党の女性党員はニューヨークなどの大都市で活動した。1904年3月8日にはニューヨークで女性織工が参政権(選挙権)を要求してデモを行ったと伝えられている。この日は後に女性の権利のための集会を世界中で開催する「国際女性デー」の起源とも言われている。それは史実としては明確ではないが、アメリカの社会主義運動が後にドイツを中心とした第二インターナショナルに継承され、「国際女性デー」に発展したことは認められている。アメリカ合衆国では1911年のワシントン州を最初として12の州が1914年までに女性参政権を認めていたが、アメリカ合衆国憲法の修正には至っていなかった。その中で、1916年、モンタナ州で共和党ジャネット=ランキンが最初の女性下院議員として当選したことが特筆される。1920年の女性参政権実現 民主党ウィルソン大統領は女性参政権に反対していたが、第一次世界大戦に参戦したことで女性の戦争への貢献も期待するようになり、急速に気運が高まり、大戦後の1919年には下院で女性参政権を認める修正憲法19条が可決された。しかし上院の議決や各州の批准が遅れ、発効したのは1920年8月26日であった。アメリカでの女性参政権が意外に遅かったことに注意しよう。 → アメリカの女性参政権
フランス
フランス革命の過程で、1792年9月に男性普通選挙が実施されたのが最も早いが、女性選挙権は含まれていなかった。最近では、「人権宣言」には女性の権利が含まれていないと抗議したオランプ=ド=グージュが女性運動の初期の人物として注目されている。男性普通選挙も1795年憲法で停止され制限選挙に戻り、女性参政権はさらに遅れた。1804年3月公布のナポレオン法典でも「夫権」のもとで女性は参政権はおろか、家長の後見にあるものとされ、財産や離婚の自由もなく、従属的な立場に置かれた。その後の復古王政によりいっそう自由・平等の理念は後退し、フランスの女性参政権は他のヨーロッパ諸国に比べて遅れた要因となった。1848年 男性普通選挙の定着 ようやく1830年代の七月王政の時期に産業革命が進行してブルジョワジーが形成されたことを背景に男性普通選挙の再開を要求する動きが強まり、それが1848年の二月革命(フランス)を呼び起こし、四月普通選挙で復活したが、女性は依然として排除されていた。男性普通選挙が定着した第三共和政の時期には憲法では認められていなかったものの、徐々に女性の権利への配慮もなされるようになり、1884年には裁判離婚制度が認められるなどの改革が行われた。女性参政権運動も1880年代は組織化も始まり、1901年以降はたびたび法案が提出され、下院は通過しながら保守的な上院で否決されると言った事態が続いた。
第一次世界大戦でも実現せず 第一次世界大戦では女性の貢献を讃える立場から女性参政権支持も多くなったが、イギリス・アメリカと異なり、下院での反対も根強く、フランスでは実現しなかった。女性参政権に反対する理由としてあげられたのは、「女性の手は投票用紙にふれるよりはむしろ、接吻されるためにある」とか、「投票すると育児を怠り、夫の意見に逆らうようになる」「投票すると女性が“いやな女”になる」などがあげられている。また夫に従うべき妻は、夫が投票するのだから充分である、とか、夫が戦争で死んだ場合にだけ認めようとか、投票は権利ではなく恩恵であると捉える意見も多かった。
1945年の女性参政権実現 ようやくフランスで女性参政権が認められるのは1944年4月21日の臨時政府の措置令によってであった。総選挙が実施されたのは1945年10月2日であった。
フランスで最初の男性普通選挙(世界最初)が行われたのが1792年、それが定着したのが1848年であったので、女性参政権はそれより約100年遅れたことになり、イギリスやアメリカが第一次世界大戦後に実現したのに比べても約4半世紀半の遅れがあった。<辻村みよ子・金城清子『女性の権利の歴史』岩波市民講座人間の歴史を考える⑧ 1992 岩波書店 p.74-75>
ドイツ
大日本帝国憲法が手本としたプロイセン王国の憲法も、女性参政権は認められていなかった。しかし、ウィーン体制の抑圧に対する自由主義運動が活発になり、1848年には三月革命(ドイツ)が勃発し、大きな変化が始まった。同年、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』発表、社会主義運動が始まると、女性解放は労働者の解放と同義となり、新たな展開が始まった。社会主義と女性解放運動 ドイツ帝国時代のビスマルクの弾圧の中で活動を展開した社会民主党のベーベルは1879年に『女性と社会主義』(婦人論)を発表し、女性の解放は労働者の解放と社会主義社会への体制変革によって可能となると主張し、エンゲルスは1884年の『家族・私有財産・国家の起源』で女性が家夫長制度と資本主義社会によって二重に搾取されていると分析して、女性解放運動は社会変革と結びつくこととなった。
ツェトキン、国際女性デーの提唱 社会民主党員のクララ=ツェトキン(1857-1933)は1892年から国際社会主義女性会議を組織し、1910年8月の第2回第2インターナショナルコペンハーゲン大会で、アメリカの女性参政権運動を継承し、世界的な女性解放運動の統一行動日として国際女性デーを開催するとすることを提唱、1911年の3月8日にそれが世界各地で開催され、100万の女性が参加した。しかし、第一次世界大戦への対応をめぐって社会民主党は分裂、ツェトキンはローザ=ルクセンブルクとともにドイツ共産党に加わったが、ドイツ革命は失敗、ローザ=ルクセンブルクは殺害された。ツェトキンはその後ワイマール共和国で議員を務め、共産党が非合法となるとソ連に亡命しコミンテルンで活動した。<マルタ・ブレーン文・イェニ・ヨルダン絵/枇谷玲子訳『ウーマン・イン・バトル―自由・平等・シスターフッド』2019 合同出版 p.64-66 などによる>
ワイマール憲法 ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北したことによって、1919年1月、憲法制定議会の選挙が男女平等の普通選挙が実施され、同年8月、新しい憲法としてワイマール憲法が制定された。ワイマール憲法は当時最も進んだ憲法と言われ、社会権を保障したことで重要であるが、男女平等の選挙権と公民権や婚姻における両性の平等が明文化され、女性の権利がほぼ保障された。しかしワイマール共和国はブルジョワ共和制国家としてファシズムの台頭を許し、1933年にナチスは男女平等の普通選挙によって「合法的に」権力を獲得した。しかしヒトラーの総統国家は、政党を非合法化して活動を禁止し、議会制や民主主義は形骸化して国家意思は総統個人の意志となり、必要とあれば国民投票で信を問うという体制を作り上げた。女性は全国婦人団体に組織化され、総裁国家に組み込まれた。
ロシア革命とソ連での女性解放
マルクス主義の人権論はフランス革命の「人権宣言」のいう人権とは異なる見方をしている。マルクスは「人権宣言」の普遍的な「人権」を否定し、階級闘争の中で人権として認められるのはプロレタリアートの階級的権利だけであり、ブルジョワ階級の権利は否定されなければならない、と考えていた(『ユダヤ人問題によせて』)。マルクス主義をロシアに適合させたレーニンも、当初は女性問題を特に重視してはいなかったが、1910年に第二インターナショナルのクララ・ツェトキンが提唱して始まっていた国際女性デーの当日にあたる1917年3月8日(ロシア暦2月23日)に、ペテルブルクの女性織工等がパンと平和を求めてストライキに立ち上がったことが二月革命(三月革命)の発端となったことから状況が変化した。ボリシェヴィキのソヴィエト政権の中ではドイツから亡命してきたクララ・ツェトキンやレーニンの妻のクルプスカヤなどが中心となってロシアの反封建状態からの女性の解放が一気に進められることとなった。1917年の十月革命(十一月革命)によって権力をにぎったレーニンのボリシェヴィキ政権のもとで、1918年の憲法では「社会主義的基本権」が保障されるのは勤労・被搾取人民であるというマルクス主義に基づき、選挙権・被選挙権は労働資格者・政治資格者に与えられ、それには勤労女性および家事労働に従事する女性が含まれた。また男女同一賃金原則が保障された。その一方で非勤労階級(資本家・地主・聖職者など)からは選挙権・被選挙権は剥奪された。またそれまでのロシア社会でギリシア正教教会の管轄下にあった婚姻や離婚は自由とされ、夫婦は平等となった。
スターリン憲法 その後、1922年にソ連邦が成立し、スターリン体制が確立した1936年に制定された、いわゆるスターリン憲法では社会主義化が達成されたとして、選挙権剥奪規定はなくなり、労働者と農民、勤労インテリゲンツィアは平等な諸権利、市民権を持つと規定され、女性は経済的・国家的・文化的などすべての分野で男性と平等であり、労働・賃金・社会保障・教育などでも同等の権利が認められた。しかし、スターリン体制下においてはしだいに家族を通して国家統制を図ろうという動きが強まり、封建的な意識を変革しないままの社会では事実上の男女不平等が残存していた。また中絶の禁止、離婚の制限などが復活し、息苦しい社会になったことも否めない。<辻村・金城『前掲書』 p.83-85 などによる>
その他の国々での実現
その他、女性参政権実施が遅かった主な国には、イタリア(45年)、ベルギー・イスラエル・韓国(48年)、中国(49年)、ギリシア(52年)、スイス(71年)などがある。日本 日本は1889年に大日本帝国憲法が成立し、立憲君主国の議会制国家となったが、議会を構成する議員の選挙権は直接国税15円以上を納入する男性のみとされる制限選挙であり、女性の参政権は認められていなかった。いわゆる「大正デモクラシー」の時期の1924年に市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟(25年に婦選獲得同盟に改称)を結成して運動を開始した。1925年に、25歳以上の男性に選挙権が与えられる「普通選挙法」が成立したが、同時に労働者層の政治参加を恐れ、牽制するために「治安維持法」が制定された。それでも女性参政権は認められなかった。
日本の女性参政権は第二次大戦後の民主化の最も重要な項目としてあげられ、1945年12月の改正選挙法で実現し、満20歳以上の男女による平等な選挙制度となった。翌年4月の総選挙では婦人議員が39名当選した。ここで成立した新議会で日本国憲法が制定された。日本国憲法は日本で始めて男女平等の選挙制度によって成立した議会で制定されたものである。
参考 女性参政権が1918年からであったことの意味
女性参政権は、近代以降の主要主権国家においてはイギリスの1918年(完全には1928年)、アメリカの1920年、つまり現在(2020年代初頭)からほぼわずか100年前に始まったに過ぎない。と言うことは何を意味するのだろうか。それは、それ以前の各国の国家意思の決定には女性は加わっていない、つまり責任はないことを意味する。ということは、第一次世界大戦までの各国が行った国家間の戦争は、その意志決定に関わった国民は男性のみであり、女性の関われないところで決められ、実行された、ということだ。第二次世界大戦では連合国側は別として、枢軸側はドイツでは議会制度は事実上成り立っていなかったし、日本・イタリアでは女性参政権は認められていなかった。
今までの戦争という歴史に女性が一切責任がない、などとは言えるはずはないが、少なくとも議会政治が機能するようになった国家において、女性に参政権が無かったと言うことはその国家意思の決定に責任はなかったと言える。極端な話、女性は「戦争は男が勝手にやったことだ!」ともっと怒って良いのは事実である。こう考えれば、議会制度のもとで選挙によって国民が国家意思を決定するという現代主権国家のシステムの中で、女性参政権の意義はとてつもなく重要であることが判る。このことは女性参政権の歴史的意義として重視して良いのではないだろうか。
出題 2011年 慶応大 商学部 第2問
問8 欧米各国で女性参政権は次々と導入されていったが、アメリカ、イギリス、フランスで、女性参政権が導入された順番を記しなさい。解答
→ イギリス・アメリカ・フランス
解説
→ イギリスは1918年、アメリカは1920年、フランスは1945年。ただし、イギリスは「男女平等選挙権」であれば1928年となってアメリカより後になるが、単に「女性参政権」であるので、1918年でいいだろう。